- 南京大虐殺史(日本版)
- 張憲文
- 13026字
- 2020-07-28 18:02:10
第三節(jié) 外
陣地と內(nèi)
陣地の激戦
一 外
陣地の爭(zhēng)奪
12月4日晩、日本軍華中方面軍は、「上海派遣軍および第十軍は南京郊外にある既設(shè)陣地を奪取した後、大概上元門『下関東北約4キロ』—小衛(wèi)『南京から句容に通じる道路上』—高橋門—雨花臺(tái)—棉花地の一に進(jìn)撃し、南京城攻略を用意せよ」という令を下し、両軍の作戦區(qū)域も「天王寺十字路—蒲塘『秣陵関東面約4キロ』—蒲塘から南京東南端の河の一
」(39)と新しく改正された。
東部の句容—湯山一における守備軍が、一番早く日本軍と交戦をした。日本軍第16師団は12月初めに、丹陽(yáng)を
て句容—湯山の間に迫ってきた。同區(qū)域で日本軍に抵抗する中國(guó)軍は、葉肇と鄧龍光に指揮される第66軍と第83軍、いわゆる広東軍であった。
12月4日に、日本軍の先頭は天王寺付近に著いた。中國(guó)側(cè)の第66軍第160師は防衛(wèi)を句容及びその西の一
に置いたが、第159師はその防衛(wèi)
を湯山鎮(zhèn)および仙瀾橋の南北に置いた。
5日の暁、句容駐在中の第955、第959各団はその場(chǎng)で一隊(duì)の日本軍と交戦し、迅速にそれを撃退した。當(dāng)日9時(shí)に、200名余りの日本軍が迂回して句容西方の土橋鎮(zhèn)に著き、中側(cè)の陣地を裏から襲撃しようとしたが、中側(cè)の第74軍に狙撃され、潰走した。夕方、日本歩兵第9、第20各聯(lián)隊(duì)は句容城を占領(lǐng)した。
句容攻略の日本軍は、6日から湯山鎮(zhèn)の守衛(wèi)軍陣地に攻撃を発動(dòng)した。7日に、守衛(wèi)軍が湯山鎮(zhèn)の前に設(shè)置した第一陣地は優(yōu)勢(shì)の日本軍の攻撃を受け、多くの箇所が突破されたので、止むを得ず夕暮れに入った後第二
に撤退して、湯山と湯山鎮(zhèn)を固守しようとする。8日に、日本軍の主力は湯山の第二
を攻め、中國(guó)側(cè)では第66軍と増?jiān)筏皮郡肖辘蔚?3軍は共同して頑強(qiáng)に日本軍を打撃した。湯山付近にある某小山の頂上では、約300名の守衛(wèi)軍は、わずか一人だけ生き
ったまで戦った。連日の激戦の後、湯山守衛(wèi)軍は命令通りに撤退して、これで湯山は日本軍に占領(lǐng)された。
12月6日に、日本軍の一隊(duì)は九華山を迂回し、その北麓の狹い山道をて龍?zhí)丁獪介gの孟塘に進(jìn)出し、さらに西へ大胡山に肉薄する。大胡山は南京守衛(wèi)軍第2軍団と第66軍の防御區(qū)の間にある。當(dāng)日、南京防衛(wèi)司令長(zhǎng)官の唐生智は令を下し、內(nèi)容は、第2軍団の第41師は北へ、第66軍の第160師は南へ、協(xié)力して孟塘—大胡山の間の凹地に攻撃すべし、同時(shí)に宋希濂部の第36師補(bǔ)第2団は、戦車と防御砲を配備して、迅速に麒麟門外へ支援に赴くべし(40)、というものである。

図1-3 1937年12月、南京郊外、日本軍防御の中國(guó)軍砲兵の陣地
出典:『紀(jì)念抗日戰(zhàn)爭(zhēng)勝利暨臺(tái)灣光復(fù)65周年特展専輯』、臺(tái)北市政府2010年編纂印刷
武漢から堯化門に到著したばかりの第41師は、徐源泉軍団長(zhǎng)の命令を受け、早速棲霞山から龍?zhí)丁獟?img alt="" class="kindle-cn-inline-character" src="https://epubservercos.yuewen.com/CE7C64/17544257907942506/epubprivate/OEBPS/Images/image-36-1.jpg?sign=1754578373-Moa4mRdtrtGjMgEPpNJpWPJEe8WL9C9U-0-acf5739882e36a29baa05bb133a668c5">臺(tái)—射烏山—孟塘のへ推し進(jìn)め、その第246、第242各団は突撃を繰り返した結(jié)果、射烏山、丁家山、鶏籠山、東山頭などを奪取し、多くの敵を倒したが、自分側(cè)も死傷過(guò)半であった。
7日の夜12時(shí)に、南京防衛(wèi)軍司令部は「衛(wèi)參作命第二十五號(hào)」という命令を下し、即ち第66軍は、有力部隊(duì)をもって棘山—空山のに展開(kāi)し、孟塘付近の敵の退路を切斷すべし。第36師補(bǔ)第2団は岡山—馬基山の
に展開(kāi)し、東面の敵に進(jìn)撃すべし。第41師は龍?zhí)丁?img alt="" class="kindle-cn-inline-character" src="https://epubservercos.yuewen.com/CE7C64/17544257907942506/epubprivate/OEBPS/Images/image-36-1.jpg?sign=1754578373-Moa4mRdtrtGjMgEPpNJpWPJEe8WL9C9U-0-acf5739882e36a29baa05bb133a668c5">臺(tái)守備の部隊(duì)の外、射烏山—木山—龍山の
に展開(kāi)し、當(dāng)面の敵に進(jìn)撃すべし。戦車部隊(duì)は主に第36師補(bǔ)第2団に協(xié)力すべし。(41)
上記の諸部隊(duì)は防衛(wèi)司令部の命令を受けると、當(dāng)日の夜から動(dòng)員を完成し、翌日暁から日本軍に有力な攻撃を施した。第160師第956団は全力を挙げて復(fù)興橋にある日本軍を攻めたが、午後2時(shí)になると、その孟塘守備部隊(duì)は
長(zhǎng)の劉厚を含めて全員戦死したことで、同団の作戦目的は失敗した。
第2軍団の第41師は、8日午前6時(shí)から攻撃開(kāi)始し、30余門の大砲を配備している日本軍歩兵數(shù)千人と激戦を交わした。9時(shí)ごろから、日軍側(cè)はさらに飛行機(jī)、大砲、戦車などを増加し、猛攻を発動(dòng)した。同陣地は「終日白刃戦を演じ、奪ったり奪われたりで、ついに我が242R、246Rの幹部はほとんど死傷し、245R、241Rも各々二三百名の死傷を出した」にもかかわらず、同日午後6時(shí)まで陣地を固守しけた。(42)同日の夜、第41師は命令どおりに烏龍山—楊坊山の
まで撤退した。第36師の補(bǔ)第2団は、軽型戦車7臺(tái)を先頭に、8日の暁から復(fù)興橋および大·小胡山にある敵軍に攻撃を発動(dòng)し、10時(shí)ごろになると、數(shù)回の連
的突撃の後、馬基山を攻略した。後に日本軍の多くの援軍が到達(dá)し、しかも戦車5臺(tái)の助力を得て、まもなく中國(guó)側(cè)の戦車2臺(tái)を撃滅した後馬基山の南半部を奪取し、東北面から守備軍を囲んだ。中國(guó)側(cè)の補(bǔ)第2団は李牧良団長(zhǎng)の指揮の下で、勇敢に苦戦して累次包囲圏を突破したが、終いに同部隊(duì)は正規(guī)の訓(xùn)練がなかったので、戦闘力が弱く、止むを得ず戦いながら後退していくが、「ついにその第二
は大半は敵に殲滅され、
りも完全に潰走した。同
長(zhǎng)の朱丹も負(fù)傷した。ほかに第一、第三
は連長(zhǎng)·排長(zhǎng)以下計(jì)百余名の死傷を出した。」(43)南京防衛(wèi)司令部は集中した兵力で南京を固守する、という考慮に鑑み、同晩令を下し、南京外
陣地の部署を調(diào)整し、孟塘—大胡山の一
陣地を放棄した。
湖熟と淳化は南京の東南方面の戦略要衝であるが、同方面に部署された防衛(wèi)軍は第74軍の第51師王耀武部である。
5日午後、淳化の正面の日本軍は、第9師団第18旅団長(zhǎng)の井出宣時(shí)の指揮により、歩兵第36聯(lián)隊(duì)を主幹に、大砲10余門を配備しながら、終日守衛(wèi)軍と激戦した。當(dāng)日、中國(guó)側(cè)の戦車部隊(duì)は一排の戦車をもって淳化戦に參加した。中國(guó)側(cè)の戦車が衝くか轢くかで日本軍に40余人の死傷を出させたが、自分側(cè)も3臺(tái)ほど日本軍に打ち壊された。6日に、淳化の正面の陣地では戦闘がより激しくなった。文書の記載によれば、「わが軍は落ち著きながら応戦し、捜索隊(duì)を索墅鎮(zhèn)へ駆逐に出して、敵の旗を數(shù)面、銃を十余挺に入れ、獲得が多かった」(44)と。午後になると、湖熟鎮(zhèn)陣地守衛(wèi)部隊(duì)の一連隊(duì)は大半戦死し、わずか20人余りが包囲陣を突破して撤退した。7日の朝から、日本軍はさらに猛烈な攻撃を発動(dòng)し、守衛(wèi)軍は機(jī)関銃掩體を10余座打ち壊されたにもかかわらず、勇敢に抵抗をけ、かなり多くの敵を撃殺したが、陣地も累次敵から奪還した。8日に至る同戦闘は、白熱した程であった。當(dāng)日の早朝、日本軍は湖熟方面から2000余人、大砲10余門が増?jiān)筏皮⑾峦跏瑜甏净酥沥腙嚨丐斯膜蛘归_(kāi)し、同時(shí)にその主力をもって上莊より破山口を襲撃し、守衛(wèi)軍の退路を切斷した。守衛(wèi)軍第51師の「戦闘詳報(bào)」によれば、「戦況の激しさや、砲火の密集する程度は、未曾有のことだった」にもかかわらず、同師は「硝煙と弾雨の中で懸命に支え、敵に突撃して白刃戦を展開(kāi)し、殺せの聲が天を衝いた」(45)という。同師は終日の戦闘をへて、損害が甚だしかった。紀(jì)鴻儒同師第301団代理団長(zhǎng)は重傷を負(fù)い、連長(zhǎng)として死傷したのは9人に上り、排長(zhǎng)以下は1400余人の死傷を出した。8日晩になると、同師は唐生智の命令を受け、淳化の陣地を放棄して、河定橋—麻田の
に撤退した。
牛首山と軍山は南京守衛(wèi)部隊(duì)第74軍の守衛(wèi)陣地の右翼にあり、第58師の防御區(qū)に屬する。同陣地を攻めた日本軍ははじめは第10軍第11師団であったが、後に同軍第6師団が緊急到達(dá)したので、後者が攻撃主力となった。
12月7日に、日本軍は陸空協(xié)同して、牛首山陣地へ持的猛攻を発動(dòng)した。中央通信社は直ちに當(dāng)日第58師が牛首山陣地を堅(jiān)守している戦況を報(bào)道している。「わが軍は高地を據(jù)え低地に臨み、手榴弾と鉄砲弾で敵の機(jī)械化部隊(duì)を狙撃する。我が某
は山前の高地を死守しているので、敵の射撃の焦點(diǎn)となり、ほとんど戦死したが、もう一
は早速同陣地に挺進(jìn)し、引き
き奮戦する。敵の飛行機(jī)二三十機(jī)は殷巷鎮(zhèn)と高井巷に狂ったように爆弾を投下し、終日止まらなかった。わが軍では
長(zhǎng)は戦死二名、負(fù)傷一名、団長(zhǎng)は軽重傷各一名、兵士は戦死數(shù)百名。同時(shí)に敵も死傷者三百余名、タンク五臺(tái)を捨て
した」(46)と。8日早朝、牛首山攻撃の日本軍は、また40余臺(tái)のタンクを先導(dǎo)に、
軍山付近へ猛烈に進(jìn)んだが、守衛(wèi)軍はタンク反撃砲で射撃を浴び、その6臺(tái)を打ちこわし、敵のタンクを後退させた。
南京防衛(wèi)司令部は第74軍の右翼である江寧鎮(zhèn)はもう守れない態(tài)勢(shì)に鑑み、8日晩第74軍に、淳化—牛首山のより河定橋—牛首山の
に収縮せよと命じた。8日夜から9日未明まで、日本軍は今度また牛首山陣地へ新しい攻勢(shì)を発動(dòng)した。わが第58師の
兵は英勇に戦って陣地を堅(jiān)守したが、ついにその右翼の撤退が早すぎたので、牛首山陣地がいよいよ孤立するようになり、日本軍の歩兵第45聯(lián)隊(duì)と歩兵第13聯(lián)隊(duì)は、30余回の突撃を
てはじめて牛首山と
軍山を占領(lǐng)した。日本軍第6師団はその戦史の中で、「12月8日夜、歩兵第13聯(lián)隊(duì)は敵軍と夜襲と反撃を繰り返し、激戦は徹夜した。夜中ごろ、わが軍は終に
軍山と隠龍山を奪取した。9日の暁、我が第一中隊(duì)は牛首山を攻略した」(47)と記す。
9日晩、南京防衛(wèi)司令部は第58師に牛首山—軍山の
より撤退すべしと命じた。牛首山陣地と
軍山陣地の失陥は、首都南部にある雨花臺(tái)陣地に最後の楯を失わせ、同陣地を直接に日本軍の前に露呈させた。それにしても、中國(guó)軍が牛首山と
軍山陣地での英勇な戦闘は、南京保衛(wèi)戦中の輝かしい一ページであったに違いない。南京防衛(wèi)司令部は後ほどの検討の中でも、「第五十八師は牛首山一帯の陣地守備に擔(dān)任したが、兪
時(shí)軍長(zhǎng)は部署に慎重であるし、法規(guī)の執(zhí)行も厳しかったから、精鋭で數(shù)多くの敵に遭ったとしても固守できた」(48)と、同戦闘を十分に評(píng)価している。
二 守衛(wèi)軍の陣地調(diào)整と日本軍の降伏勧誘
元來(lái)南京防衛(wèi)軍は、南京の東、南、西の三方に位する大扇子形の外陣地は、8日前後にいたると、もはや多數(shù)の陣地が日本軍に突破されたが、少數(shù)の陣地はまだ突破されていないが、もう支えられない態(tài)勢(shì)となっている。この時(shí)南京防衛(wèi)戦闘序列に入っている第87師は、大半はもはや鎮(zhèn)江から南部陣地に到達(dá)した。第83軍の第154、第156両師も丹陽(yáng)、句容一帯より南京へ転進(jìn)中。外
の態(tài)勢(shì)と部隊(duì)の移動(dòng)という
況に鑑み、南京防衛(wèi)司令部は同晩「衛(wèi)參作字第二十八號(hào)」の令を下し、內(nèi)
陣地に撤退することを決めた。
同命令の指導(dǎo)思想は「兵力を集中して、南京を固守する」にある。つまり、元の外陣地は収縮後、新陣地は南京の城壁を楯に、外
と城壁との間の一帯を重點(diǎn)防御地帯とするものである。同內(nèi)
は、西は長(zhǎng)江に近い板橋鎮(zhèn)と牛首山から始まり、東は河定橋、紫金山に延び、さらに楊坊山、烏龍山へ
て長(zhǎng)江岸に至る。
今度の陣地収縮は、當(dāng)時(shí)中日雙方の軍事力の格差による戦場(chǎng)の態(tài)勢(shì)に決められたものでありながら、最高指揮官の戦略と戦術(shù)上では型にはまっていることを反映している。消極的な防御策である。12月8日における陣地の消極的な調(diào)整は、南京軍事當(dāng)局の決戦の意志が読み取れる一方、保衛(wèi)戦の失敗をも予示している。
日本軍がすでに南京の外陣地を全面的に突破した上、內(nèi)
陣地へ押し進(jìn)みつつある情勢(shì)の下で、松井石根日本軍華中方面軍司令官は、最後通牒として12月9日に南京の守衛(wèi)軍に降伏勧誘書を飛行機(jī)で投下することを決めた。同投降勧誘書の全文は次の通りである。
日軍百萬(wàn)すでに江南を席巻せり、南京城はまさに包囲の中にあり、戦局の態(tài)勢(shì)より見(jiàn)れば今後の交戦はただ百害あって一利なし、惟ふに江寧の地は中央の舊都にして民國(guó)の首都なり、明の孝陵、中山陵など古跡、名所蝟集し、さながら東亜文化の精髄の観あり、日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも無(wú)辜の民衆(zhòng)および敵意なき中國(guó)軍隊(duì)に対しては寛大をもってこれを侵さず、東亜文化にいたりてはこれを保護(hù)、保存する熱意あり、しかして貴軍交戦をせんとするならば南京は必ず戦禍は免れ難し、しかして千載の文化を灰燼に帰し十年の
は全く泡沫とならん、よって本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す、すなはち南京城を和平裏に開(kāi)放し、しかして左記の処置に出でよ
大日本陸軍司令官 松井石根
本勧告に対する回答は十二月十日正午中山路句容道上の歩哨において受領(lǐng)すべし、もし貴軍が司令官を代表する責(zé)任者を派遣する時(shí)は該所において本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協(xié)定を遂行するの準(zhǔn)備あり、もしも該指定時(shí)間內(nèi)に何らの回答に接し得ざれば日本軍はやむを得ず南京城攻略を開(kāi)始せん(49)
南京防衛(wèi)司令長(zhǎng)官の唐生智は日本軍の降伏勧誘チラシを手に入れた後、12月9日午後7時(shí)に「衛(wèi)參作字第三十六號(hào)」を下記の通り下した。
1.本軍が目下もっている內(nèi)陣地は南京固守の最後の戦闘になり、各部隊(duì)は陣地とともに存亡する決心をもって固守に盡力すべし。一寸でも我が地を軽易に放棄し軍を動(dòng)揺してはいけない。命令に従わず勝手に後方に移動(dòng)するものあったら、必ず委員長(zhǎng)の命令に遵守し連座法により厳しく処理する。
2.各軍が入手した船舶は、一律に運(yùn)輸司令部に上納すべく、無(wú)斷で留置してはいけない。宋希濂第七十八軍長(zhǎng)をして船舶の指揮に擔(dān)當(dāng)させる。江沿いの憲、警はばらいばらの兵隊(duì)が無(wú)斷で乗船して江を渡ることを厳しく取り締まるべく、違反者をその場(chǎng)で拘束し厳しく処する。敢えて反抗するものなら、武力で制止すべし。(50)
守衛(wèi)各部隊(duì)は唐生智の命令を受けた後、いずれも際の行動(dòng)で警備を強(qiáng)化し、陣地を堅(jiān)守し、日本軍を猛撃した。宋希濂第78軍長(zhǎng)も命令通りに、下関守備部隊(duì)第212団に憲、警と協(xié)力し船舶の取り上げに攜わるよう、そしてばらばらの兵隊(duì)の無(wú)斷乗船を防ぐよう、布告を貼り各友軍に知らせるよう、と命じた。
降伏勧誘は効かなかったので、松井石根は12月10日午後1時(shí)に令を下し、「一、支那軍はわが軍の勧告を受け取らず、相変わらず頑強(qiáng)に抵抗している。二、上海派遣軍と第十軍は、南京攻略戦をつづけるほか、市內(nèi)の存敵軍を掃蕩すべし」(51)と。松井は當(dāng)日の日記に、「今日は晝まで待ったが、相変わらず支那軍の回答を受けなかった。そこで私は両軍に午後から南京を攻撃すべしという令を下した。敵軍の頑固に惜しく思う。攻めることはやむを得ないことだ」(52)と書ていている。
三 內(nèi)
の戦闘
1937年12月10日に松井石根が南京攻撃の令を下した時(shí)から、戦火は東から西へと南京の內(nèi)
陣地に沿って燃え出した。
紫金山は孫中山先生の陵墓の所在地であり、南京東面の天然の楯でもある。唐生智南京防衛(wèi)司令長(zhǎng)官は、裝備が精良で戦闘力が強(qiáng)い教導(dǎo)隊(duì)を紫金山陣地に部署した。教導(dǎo)
隊(duì)は「蔣介石の鉄衛(wèi)隊(duì)」の名譽(yù)を享有しているが、
隊(duì)長(zhǎng)は桂永清、副
隊(duì)長(zhǎng)は周振強(qiáng)、參謀長(zhǎng)は邱清泉、兵力は歩兵3か旅6か団に、湖南·江西に訓(xùn)練中の3か新兵団もあるが、その直屬部隊(duì)は砲兵団、騎兵団、工兵団、行李団および通信
、軍事
、特務(wù)
などを有し、
兵力は約11か団。當(dāng)時(shí)紫金山及び付近陣地を攻撃したのは日本軍第16師団であった。同師団は歩兵第33聯(lián)隊(duì)をもって紫金山攻撃の主力とし、歩兵第38聯(lián)隊(duì)をその右翼にして、玄武湖北側(cè)と紫金山北側(cè)より北南京へ攻撃する。歩兵第9聯(lián)隊(duì)はその左翼として、紫金山の南側(cè)地區(qū)を攻撃する。歩兵第20聯(lián)隊(duì)はその最左翼として、東面の主道路に沿って中山門へ攻撃する。と同時(shí)に、同師団左翼に繋がる第9師団歩兵第35聯(lián)隊(duì)も、
攻撃の最後にあたり一大隊(duì)の兵力も派出し、紫金山頂上攻略の戦闘に加わった。
12月8日から、湯山方面から西へ進(jìn)んでいる日本軍はもはや紫金山地區(qū)に進(jìn)出し、しかも紅毛山、老虎洞で守衛(wèi)軍と激戦を交わした。8日に、通門外の紫金山陣地最南端の紅毛山に進(jìn)出した日本軍は、中國(guó)守衛(wèi)軍教導(dǎo)
隊(duì)の周石泉
と終日激戦した。10日午後、
攻撃の命令の下達(dá)につれ、日本軍第16師団の紫金山攻撃各部隊(duì)は猛烈な攻撃を開(kāi)始した。教導(dǎo)
隊(duì)の
兵はここで英勇な抵抗を行った。當(dāng)日の攻撃中、正面から第二峰を攻める日本軍歩兵第33聯(lián)隊(duì)は、「382.5高地の敵からの持
的抵抗をうけた」ので、第6中隊(duì)により夜襲を
行することにした。同聯(lián)隊(duì)史の記載によれば、「第六中隊(duì)は勇敢に攻撃を
施したが、しかし敵軍は手榴弾で頑強(qiáng)な抵抗をしたし、同中隊(duì)の左裏は二百余名の敵軍の反撃を受けたし、中隊(duì)は多くの死傷者を出して、攻撃も一時(shí)挫折したにもかかわらず、未明の時(shí)になると、終に敵陣の一角を奪取した」(53)と。11日と12日に、紫金山第二峰と西山主陣地で、中日両軍は晝夜にして激戦を交わした。日本軍は紫金山陣地を攻略するため、大量の増?jiān)筷?duì)を出したうえ、カノン砲をもって中國(guó)側(cè)の陣地に直射し、よって主陣地の激戦はますます激しくなった。11日未明、中山門外の主道路付近にある中國(guó)守衛(wèi)軍は、日本軍の猛烈な砲火を冒し頑強(qiáng)に抵抗したので、山坂を進(jìn)撃中の日本軍は已むを得ず一時(shí)攻撃を停止した。日本軍第20聯(lián)隊(duì)の兵士の牧野信夫はその「陣中日記」で、「敵はこれほど強(qiáng)い砲撃を受けたにもかかわらず頑強(qiáng)に最後まで抵抗したことは、
に感服した」(54)と嘆く。12日に、紫金山の戦闘は最後の段階に入り、中日雙方は慘烈な戦闘を
けた。紫金山頂上を主攻する日本軍歩兵第33聯(lián)隊(duì)の「戦闘詳報(bào)」では、當(dāng)部は午前數(shù)時(shí)間ほどの激戦を
て初めて頂上の東南麓の陣地に突入したと、「その間、敵軍も小銃と機(jī)関銃で猛烈に射撃したり、手榴弾で投げたりして頑強(qiáng)に抵抗した。頂上の東北方の數(shù)
の陣地を占めている敵は頂上の北側(cè)から戦闘に加わり、同時(shí)に頂上の南側(cè)の裏からもぞくぞくと敵援兵も増加したし、戦闘はいよいよ激しくなった」(55)と記す。12日午後になると、第二峰と西山の陣地はともに日本軍に突破された。當(dāng)時(shí)防衛(wèi)司令部からはすでに全體撤退令を下したと言えども、教導(dǎo)
隊(duì)の
兵は、依然として紫金山一號(hào)高地で日本軍と血戦をつづけている。12日夕方、日本軍は紫金山主峰を占領(lǐng)した。
後に、日本軍華中方面軍司令官の松井石根も、「南京の教導(dǎo)隊(duì)は相當(dāng)勇敢な抵抗を発揮した」(56)と認(rèn)めるしかなかった。日本軍第9師団はその戦史の中で、「紫金山を守衛(wèi)する敵軍は敵だと言えども、確かに勇猛だった。彼らも最後の一人まで戦った。結(jié)果は死ぬことが明白に分かっているのに、頑強(qiáng)に抵抗をつづけ、わが軍の進(jìn)攻を英勇に阻止していた」(57)と書く。南京保衛(wèi)戦の最高指揮官の唐生智、羅卓英と劉興も、紫金山における教導(dǎo)
隊(duì)の頑強(qiáng)な抵抗に対し高く評(píng)価している。同指揮官らは後に蔣介石に提出した報(bào)告の中で、「紫金山守衛(wèi)部隊(duì)も、沈著で勇敢に戦うことができた。わが軍が南京より退出した翌日さえも、一部の
兵が陣地を死守し、壯烈な犠牲として最後まで戦った」(58)と書いている。
紫金山戦闘が激しく進(jìn)行しているうちに、紫金山陣地の左側(cè)にある楊坊山、銀孔山両陣地にも激しい戦闘が展開(kāi)した。烏龍山—楊坊山のを防衛(wèi)するのは第2軍団であり、楊坊山、銀孔山両陣地を攻めてくるのは日本軍第16師団の歩兵第38聯(lián)隊(duì)である。
楊坊山戦闘は10日から始まった。同日午後2時(shí)ごろ、日本軍は第48師の防衛(wèi)中の和尚莊に猛攻を発動(dòng)したが、守衛(wèi)軍の痛撃により失敗した。11日朝、日本軍は大砲30余門、飛行機(jī)10余機(jī)をもって、楊坊山へ絶えずに攻撃を発動(dòng)し、まずは山にある工事をすっかり打ちこわし、
いてタンク16臺(tái)で歩兵を掩護(hù)して同山を包囲し、しきりに突撃を
施した。楊坊山陣地守衛(wèi)の第288団第3
の
兵は、陳慶勲同
長(zhǎng)の指揮の下で頑強(qiáng)に抵抗し、日本軍との混戦を繰り返したが、ついに日本軍の猛烈な砲火のため同
全員ほとんど戦死し、陳
長(zhǎng)も重傷を負(fù)ったので、同陣地は日本軍に占領(lǐng)された。と同時(shí)に、楊坊山—曹莊の
も、同日に激戦が交わされた。
楊坊山を占領(lǐng)した日本軍歩兵第38聯(lián)隊(duì)は、引きき近くの銀孔山に向かった。徐源泉第2軍団長(zhǎng)は、楊坊山陣地が激戦中の時(shí)から、第142旅第283団に銀孔山へ工事を早速構(gòu)築せよと命じて、予備の防衛(wèi)策を講じた。楊坊山が激戦の後失陥して、間をおかずに銀孔山にも激戦が始まった。第2軍団の「戦闘詳報(bào)」の記載では、次のとおり記している。
敵は楊坊山を占領(lǐng)してから、いて全力をもって銀孔山に猛烈な爆撃を開(kāi)始し、その慘烈は前者よりも倍である。同山守衛(wèi)のわが283R団第一
の単喆淵
長(zhǎng)と孫世考連長(zhǎng)は、ともに自ら兵士の先頭に立って半日ほど血戦し、弾を飲んで國(guó)に殉じたが、同
全員もほとんど戦死した。単
長(zhǎng)の部が激戦しているうちに、同団の第二、第三両
が増?jiān)笋lけていったが、敵の砲撃と飛行機(jī)の爆撃で、途中にでも死傷過(guò)半にして、銀孔山はついに敵に占領(lǐng)された。(59)
という。
日本軍第16師団の右翼は楊坊山と銀孔山を占領(lǐng)したあと、玄武湖および紫金山の北側(cè)を迂回して南京北方地區(qū)を占領(lǐng)した。
東南城門の光華門は南京防衛(wèi)南の左翼にあり、戦闘がもっとも激烈な陣地でもあった。ここは南京防衛(wèi)南
と防衛(wèi)東
の結(jié)合部であるから、前後して教導(dǎo)
隊(duì)、第87師、第88師、第156師と憲兵団諸部隊(duì)が同時(shí)か交代で守衛(wèi)に加わった。日本軍歩兵第36聯(lián)隊(duì)は12月8日に淳化鎮(zhèn)を攻略した後、守衛(wèi)軍第51師がすでに河定橋を撤退したし、命令により光華門外道路の
に著いたばかりの第87師も足場(chǎng)が不穏である好機(jī)に乗って、歩兵2000余名、タンク10余臺(tái)をもって、9日暁光華門外に現(xiàn)れた。この際光華門では僅か教導(dǎo)
隊(duì)の少數(shù)部隊(duì)が守備を擔(dān)當(dāng)しているので、守備軍は突然の敵に驚き、城門を固く閉めた。光華門の城壁は高く、門外には護(hù)城濠があるし、それに防御工事が築いてあるので、日本軍の進(jìn)攻はかなり大きな困難に遭わされた。猛烈に攻撃されたため、守衛(wèi)軍もかなりの犠牲をだした。第88師第524団の一か
は一日の奮戦をへて、
兵延べ300名の死亡者を出した。9日の戦闘では、光華門は累次日本軍の砲撃を受け、數(shù)回も砲弾で貫通されたが、迅速に守衛(wèi)軍に修復(fù)された。城門內(nèi)に突入した日本軍は一部は殲滅されたが、一部は同門內(nèi)の洞窟に入ってきて、守衛(wèi)軍に脅威をもたらした。
10日に、日本軍の絶えない砲撃の下で、光華門の両側(cè)の城壁は二か所に突破口を作られた。午後になると、日本軍の一部はタンクに掩護(hù)され、光華門正面陣地の約百メートルほどの幅を突破し、橋南街道の両側(cè)の家屋を占めた後、後部隊(duì)を掩護(hù)して戦果を拡大し、一部の日本軍は城壁の突破口から垣へ猛突撃し、城內(nèi)に攻め込もうとした。教導(dǎo)
隊(duì)第2団および軍士
と戦車防御砲連は反撃に努力し、頑強(qiáng)な敵と戦いあった結(jié)果、敵を撃退し、日本軍を3名俘虜した。黃昏になると、第87師は有力な反撃を組織·
施した。すなわち、易安華第259旅長(zhǎng)は強(qiáng)化団を一つ率いて、通
門外を出発し西から東北方向へ攻撃していく;陳頤鼎第87師副師長(zhǎng)兼同第261旅長(zhǎng)は強(qiáng)化
を2つ率い、光華門外の清涼巷と天堂村を発し東から西へと、第259旅と協(xié)同して光華門外侵入の日本軍を挾撃し、夜のとばりの掩護(hù)を借りて懸命に襲撃の結(jié)果、ついに同侵入軍をほとんど撃滅した。遺憾なことに、わが第259旅長(zhǎng)の易安華、第261旅參謀主任の倪國(guó)鼎、および
長(zhǎng)2人、連長(zhǎng)以下の
兵30余人も、光華門外で戦死した。城門內(nèi)の洞窟にいる日本軍を滅ぼすため、守衛(wèi)軍は10日夜決死隊(duì)を組織し、火で攻撃し、洞窟內(nèi)の日本軍を滅ぼした。中國(guó)軍事檔案によれば、「この夜一五六師は決死隊(duì)を選出し城を降りて、城門內(nèi)の洞窟に潛伏している少數(shù)の敵を火で滅ぼし、通光
舎に據(jù)えている敵をも滅したので、光華門および通
門の方は安全になった」(60)という。元日本軍第9師団兵士の宮部一三の記憶によれば、「朝1時(shí)ごろ、敵は城門から杭を投下し、そのうえに石油をかけて焚く。徹夜して燃やした大火はわが
兵をたいへん困らせた」(61)という。11日と12日に、日本軍はまだ光華門をめぐって爭(zhēng)奪戦を演じている。膠著戦でいたのが、日本軍は光華門を占領(lǐng)できないままでいた。日本軍歩兵第36聯(lián)隊(duì)の戦史は、12日午前の戦闘につき、「聯(lián)隊(duì)の損害は、伊藤善少佐など275人戦死、小川清大尉など546人負(fù)傷」(62)と記している。
安徳門と雨花臺(tái)はともに中日両軍交戦の重要な戦場(chǎng)であった。ここでの守衛(wèi)軍は第72軍であり、すなわち第88師の孫元良部であり、右翼は第262旅の朱赤部、左翼は第264旅の高致嵩部。同師の左側(cè)は第87師に繋がり、右側(cè)は第51師に繋がる。この陣地を攻撃する日本軍は、東から西へと順に、右路は第9師団、中路は第114師団、左路は第6師団であった。
12月9日午前、日本軍は一聯(lián)隊(duì)をもって雨花臺(tái)陣地の東側(cè)に進(jìn)攻を発動(dòng)したが、守衛(wèi)軍の英勇な打ち返しによりに退去した。同午後、日本軍はもう一聯(lián)隊(duì)を追加し、再び進(jìn)攻を発動(dòng)した。我が第264旅長(zhǎng)の高致嵩は自ら第528団の二つのを率いて増?jiān)贰⒓椁蠌匾工筏俊T毡拒姷?師団歩兵第19聯(lián)隊(duì)兵士の宮部一三の記述のよれば、同夜「敵の抵抗はきわめて頑強(qiáng)で、迫撃砲弾、手榴弾が交差砲火となって、累次懸命に反撃してきたので、わが軍は死傷を絶えず出した……敵の歩兵大部隊(duì)は砲火の掩護(hù)の下で、累次連
してわが軍に勇猛に逆襲してきて、にしてわが第一
部隊(duì)は陣地を死守し、敵を撃退したが、當(dāng)日の戦闘中、聯(lián)隊(duì)側(cè)は百五十余人の死傷をだした」(63)という。日本軍歩兵第19聯(lián)隊(duì)は10日の朝、再び雨花臺(tái)の東側(cè)に猛烈な攻撃を発動(dòng)し、守衛(wèi)軍の頑強(qiáng)な抵抗を受けた。終日の激戦を
て、日側(cè)は重大な死傷を払ったあと白壁高地の東側(cè)を占領(lǐng)した。
11日の雨花臺(tái)陣地では、戦闘がもっと激しかった。守衛(wèi)軍第264旅はすでに予備隊(duì)としての第528団と付屬工兵第一を第一
の戦闘に出陣させた。高致嵩旅長(zhǎng)は累次部下を率い反撃を
施し、中國(guó)側(cè)の陣地に突入した日本軍と白刃戦を交わし、日本軍が敗走した。同旅と肩を並べて戦っていた第262旅も日本軍による何回かの突撃を撃退し、日本軍は厳重な死傷を出した。朱赤第262旅長(zhǎng)は、自ら決死隊(duì)を率い、腕を挙げて部下を督勵(lì)しながら敵の群に殺到し、
兵全員は旅長(zhǎng)に従って日本軍と血を浴びながら奮闘した。
雨花臺(tái)の主要陣地を正面から進(jìn)撃する日本軍第114師団歩兵第66聯(lián)隊(duì)は、當(dāng)日では2000名の中國(guó)守衛(wèi)軍の繰り返した突入を受け、杭州灣上陸以來(lái)一番激しい手榴弾戦を験した。同聯(lián)隊(duì)第3中隊(duì)の戦史は、「約二千名の敵は野砲、迫撃砲、機(jī)関銃の掩護(hù)下で反撃を
施したところ、鉄
網(wǎng)は敵を阻止した。そこで雙方は鉄
網(wǎng)を隔てて手榴弾を投げ合い、懸命な攻防戦は30分間持
した。敵は號(hào)を吹き出して陣地に撤回した。2000名の敵を目の前にして、50メートル以上の距離での手榴弾戦は上陸以來(lái)の一番激烈な戦闘だった」(64)と記録している。12日朝、日本軍は多くの攻撃機(jī)と數(shù)十門の大砲を集中し、數(shù)千の歩兵に協(xié)力し、三つのルートに分けて雨花臺(tái)陣地に突撃してきた。中國(guó)側(cè)の檔案には當(dāng)日の戦況を次のように記述されている。
敵は戦車、飛行機(jī)、大砲および精鋭な陸軍をもって、絶えずに猛攻を施行してくる。我が朱赤第262旅長(zhǎng)、高致嵩第262旅長(zhǎng)、同旅の韓憲元、李傑、華品章各団長(zhǎng)、趙寒星中校參謀、黃琪、符儀廷、周鴻、蘇天俊、王宏烈、李強(qiáng)華各長(zhǎng)は、別々部下を率いて累次勇敢に突撃し、白刃戦を繰り返して、血肉は戦場(chǎng)を飛び散っていた。午前、同旅の韓憲元団長(zhǎng)、黃琪、周鴻、符儀廷各
長(zhǎng)前後して戦死した。午後、朱赤、高致嵩両旅長(zhǎng)、華品章団長(zhǎng)、蘇天俊、王宏烈、李強(qiáng)華各
長(zhǎng)も弾薬が使い切れた上援軍もないので、自裁したり戦死したりして、至極の悲壯さと慘烈さで、天地も変色した。同師
兵全員六千名は悉皆英勇に壯烈に國(guó)のために戦死した。李第527団長(zhǎng)も飛行場(chǎng)まで脫出したが、敵弾に命中され自殺した。(65)
南京防衛(wèi)軍は雨花臺(tái)陣地堅(jiān)守の戦闘で巨大な犠牲を出したうえ、心を痛めたことに、同陣地失陥後よく撤退を組織できなかったので、必要以上の死傷を再び出したのである。
雨花臺(tái)北面の城垣陣地は中華門である。中華門一を防衛(wèi)する中國(guó)軍隊(duì)は、その左翼は第87師で、右翼は第51師である。中華門を攻撃する主要部隊(duì)は日本軍の第6師団である。同師団は、坂井徳太郎が率いる第11旅団の歩兵第13、第47聯(lián)隊(duì)を、中華門の東西両側(cè)に配置し、協(xié)力して中華門を攻略するのである。歩兵第47聯(lián)隊(duì)?wèi)槭筏摔瑜欷小ⅰ府?dāng)時(shí)、第六師団が下した命令が非常に微妙で、第47聯(lián)隊(duì)が攻撃すべき區(qū)域は前面の中華門西方約千メートル幅の城壁で、つまり中華門右側(cè)にある岡本部隊(duì)(第十三聯(lián)隊(duì))と第四十七聯(lián)隊(duì)のどっちでも中華門を奪取してよい、ということになる。」(66)
12月10日に、日本軍第6師団は「六師作命甲第81號(hào)」を下し、所轄の歩兵第11、第36各旅団を右翼隊(duì)と左翼隊(duì)に分け、協(xié)同して中華門およびその西方の城垣一を奪取することを目指す。10日から、もはや日本軍の少數(shù)の部隊(duì)が守衛(wèi)軍の守備
を突破し、仮架橋を通して中華門を攻撃しはじめた。雨花臺(tái)守衛(wèi)第88師の防衛(wèi)
は一部日本軍に占領(lǐng)された後、日本軍は砲兵陣地を同陣地まで推し進(jìn)め、タンクと歩兵を掩護(hù)し中華門城垣へ攻撃を開(kāi)始し、中華門守衛(wèi)の
兵は厳重な死傷を出した。
12日に、日本軍は中華門に対し大規(guī)模の進(jìn)攻を発動(dòng)し、戦闘は非常に激烈であった。南京保衛(wèi)司令部譚道平參謀課長(zhǎng)は同戦闘の情景をこう描寫している。つまり、「重型の砲弾をもって中華門を砲撃し、砲弾の震動(dòng)で堅(jiān)固な城壁の外殼は千萬(wàn)の石屑に崩れて空中に飛びちるが、垣根にある家屋に直撃したら、それはただちに崩れ落ちてしまう。垣の石殼より出た土砂は放流していて、まるで流れの早い流砂のようだ」(67)と。一部の日本軍は中華門と水西門の間にある突破口を利用して、午前9時(shí)ごろから、梯子で城壁を攀じ登る。守衛(wèi)軍第306団の邱維達(dá)団長(zhǎng)はすぐ第3
の胡豪
長(zhǎng)に、決死隊(duì)を組織し、1時(shí)間內(nèi)で城壁內(nèi)に突入した日本軍を完全に粛正せよ、と命じた。命令を受けた胡豪は、早速?zèng)Q死隊(duì)を組織でき、城壁の突破口へ反撃を
施し、同団全火力での有力な掩護(hù)下で、1時(shí)間足らずで、突入してきた日本軍を徹底的に解決し、十余人を俘虜に捕えた。同戦闘で、劉歴滋団附少校と胡豪
長(zhǎng)は不幸にして敵弾に命中され戦死した。(68)日本軍歩兵第47聯(lián)隊(duì)は、かつて中津留大作伍長(zhǎng)ら6名の兵士からなる決死隊(duì)を組織して、中華門西方の城壁に突撃することを試みた。同決死隊(duì)は非常に慘烈な格闘を
験し、最後では中津留一人だけ城壁に
って後
の主力をまつほどであった。今回の突撃で生き
った中津留大作伍長(zhǎng)は、その日記に城壁をよじ登る時(shí)の恐ろしい一幕をこう記している。
我々は事前用意しておいた長(zhǎng)さが約十メートルの二つの竹梯子を一つに縛って城壁によじ登ってみたが、竹梯子は城壁の上部までは三メートルの差がある。兵士たちは雑木と煉瓦の隙に踏んで城壁の垣の上によじ登って、日章旗を立てた。しかし城を堅(jiān)守する敵軍は火力を集中して我が攀じ登りを阻止してき、とうとう立てた日章旗も敵の攻撃の的ともなったので、われわれは旗を倒した。兵士たちは懸命に煉瓦を一つ一つと取り出して、ようやく體を容れられるぐらいの空洞を作った。我々は空洞から垣の上までよじ登りできたが、しかし敵の猛射で頭を出せず、それで取り出した煉瓦で小さい掩體をつくり、軽機(jī)関銃で敵を圧制しながら、橋頭堡陣地を拡大していく。(69)
中華門で激戦があった時(shí)、同門西南の城壁の曲がり角にある賽公橋でも血戦があった。賽公橋を守衛(wèi)する中國(guó)軍は第51師である。同師は第151旅の第302団および第305団の一部をもって賽公橋から関帝廟東面までのを、第153旅の第306団および第301団の一部をもって水西門南面800メートルのところから西南曲がり角の垣までの
を、それぞれ守衛(wèi)する。同陣地を攻撃する日本軍は第6師団の第36旅団である。第6師団の部署によれば、中華門及びその西方一
の城垣を攻撃する行動(dòng)では、歩兵第23聯(lián)隊(duì)は城壁の西南角を、歩兵第45聯(lián)隊(duì)は水西門を、それぞれ攻撃するという。賽公橋はちょうど同両聯(lián)隊(duì)が攻撃する正面の結(jié)合部である。
12日の暁、日本軍は大砲で賽公橋および西南城角を砲撃し、まもなくタンク10余臺(tái)、飛行機(jī)20余機(jī)をもって歩兵の進(jìn)撃を掩護(hù)した。賽公橋一帯を守衛(wèi)する兵は奮闘し、戦況の激烈さは未曾有のもので、日本軍に重大な死傷を出させた。関係資料の記載によれば、「賽公橋は數(shù)回ほど敵に突破されたが、
兵が英勇に敵と白刃戦を交わし三時(shí)間ほども悪戦して、賽公橋を完全に守れた」(70)という。激烈な賽公橋戦の中で、程智第302団長(zhǎng)は自ら第一
に立って戦闘を指揮し、右手の指が三本打ち落とされた時(shí)、副官から安全地帯に退くようにとの勧めを聞き入れず、そうそうと包帯で巻いてから、また陣地に戻ったが、間もなく腹部も敵の機(jī)関銃弾九発に命中され、壯烈に戦死した。賽公橋は數(shù)回日本軍に占領(lǐng)されたが、毎度中國(guó)軍によって奪い返され、唐生智南京防衛(wèi)司令長(zhǎng)官からの撤退令が來(lái)るまで、賽公橋上の中國(guó)軍旗は依然として硝煙の中を翻っていた。