- 南京大虐殺史(日本版)
- 張憲文
- 16961字
- 2020-07-28 18:02:11
第四節(jié) 南京失陥
一 日本軍による南京陥落
南京城がもう三面から囲まれ、情勢が危険に陥った現(xiàn)狀の下で、唐生智南京防衛(wèi)司令長官は勝手に撤退しては行けぬと厳しく各部隊(duì)を控えると同時(shí)に、市街戦を準(zhǔn)備せよと命じた。甚だ困難で危険な狀況の中で、南京を守衛(wèi)する兵には確かに市街戦を行う準(zhǔn)備と決心があったが、ただ危急の情勢の下で蔣介石の撤退令による全體撤退を決めた後、ついにその打算を放棄したのである。
蔣介石は長期抗戦を堅(jiān)持するための必要な戦力を保持する、という戦略的視點(diǎn)に鑑み、12月11日に顧祝同第三戦區(qū)司令長官を通じて、南京守衛(wèi)軍に撤退令を下した。同日の晝頃、顧祝同は唐生智に電話をし、「委員長はすでに南京守衛(wèi)軍撤退せよと下令したから、早く浦口に來なさい。胡宗南に浦口で貴方を待たせるから。」と稱したが、唐は、「多くのことは各部隊(duì)長にはっきり申し付けなければならない。できてから撤退する。でないと、これからの責(zé)任はだれが負(fù)ってくれる?」と答えた。顧が「情勢が緊急だぞ。」と強(qiáng)調(diào)したのに対し、唐は「早くとも明晩になってはじめて撤退できる。私、自分だけの命を惜しみ、部下兵の死活をかまわなくてはいけない。」(71)と返答した。
顧祝同の電話を受けて、間もなく蔣介石からの「真侍參」の撤退令を受けた。同令は「事上持ち
けられないなら、時(shí)機(jī)を見て撤退してよい、もってよく整ってから反攻を図るべし」(72)という。數(shù)時(shí)間後、唐生智は再び蔣介石からの「真戌侍參」の撤退令を受け、令の內(nèi)容は同じだ。そこで唐生智は、翌朝3時(shí)に羅卓英、劉興各副司令長官、周斕參謀長、寥肯參謀処長、譚道平參謀処一課長などを招集し、撤退問題につき商談をし、周斕參謀長に責(zé)任者として撤退令を作成すると命じた。
12日午後5時(shí)に、唐生智は唐公館で師長以上の校會(huì)議を招集し、羅卓英、劉興各副司令長官、周斕參謀長、佘念慈副參謀長などが出席した。唐生智は蔣介石からの二通の撤退令を朗読した。
唐生智は會(huì)議の終わりに、書面の撤退令中の一部の規(guī)定について口頭命令を下し、即ち、「87D、88D、74A、教導(dǎo)隊(duì)諸部隊(duì)は、包囲陣から全部突破できなかったら、汽船があれば長江を渡って滁州に集結(jié)してよい。」(73)唐の同口頭命令は南京保衛(wèi)戦の結(jié)果には重大な影響をもたらすものである。というのは、それで長江を渡る部隊(duì)の數(shù)はやたらに5か師以上増やしたからだ。つまり元計(jì)
で決められた「大半は包囲陣から突破し、一部だけ長江を渡る」という原則は、今では「大半は長江を渡り、一部だけは包囲陣から突破する」となってしまって、當(dāng)時(shí)の運(yùn)輸能力では絶対にできないことだ。包囲陣から突破する予定だった多くの部隊(duì)は、今度は悉皆江岸に殺到し、その數(shù)もなんと9か師、江岸には船舶はわずかであって、無秩序になってしまい、結(jié)局建制が崩れてしまった山ほどの部隊(duì)が江岸か城內(nèi)に滯在していたので、その一部は俘虜となり、一部はしようがなく民間に潛入した。
撤退令が慌ただしく下されたので、一部の部隊(duì)は會(huì)議參加の通知さえ受けなかったし、出席した指揮官も戦場の情勢が厳重だから部隊(duì)の撤退を秩序正しく順調(diào)に指揮することもできなかった。ということで、大量の部隊(duì)は無秩序に江岸に集まり、我先に渡し船に乗ろうとしたり、泳いで渡ろうとしたりして、慘劇が多く発生した。
あらゆる守衛(wèi)部隊(duì)の中で、ただ第2軍団は20余隻の民間船による連的輸送を得たので、それで全軍団は安全に撤退できた。同軍団は戦闘で死傷者の5097人を出したほか、
りの11451人は全員江北に撤退した。(74)葉肇が率いる第66軍と、鄧龍光が率いる第83軍はともに広東軍であるが、撤退する際に「現(xiàn)地包囲突破」の命令に従って集結(jié)し、太平門と仙鶴門を
由してまず江寧と句容などに辿り、最後は南安徽に到達(dá)して集団軍に回帰した。同両軍は途中で累次日本軍と遭遇戦を交わし、部隊(duì)は絶えず死傷を出したり、戦闘員が行方不明になったりして、終にはただ4000人近く
った。統(tǒng)計(jì)によれば、南京防衛(wèi)部隊(duì)という15萬人もの大軍は、血戦と失陥後の殉難を
て、約10萬人を失って、ただ5萬人だけは安全に後方に撤退した。(75)
12月13日に、日本軍は、南京東面の中山門、太平門、東南面の光華門、通門、武定門、南面の中華門、雨花門、および西面の水西門、漢西門各門を占領(lǐng)した。
中山門方面では、13日未明、日本軍は第16師団歩兵第20聯(lián)隊(duì)は戦闘なしで中山門を占領(lǐng)し、城門に白くて太い字で「昭和12年12月13日未明3時(shí)10分、大野部隊(duì)占領(lǐng)」(76)と書いた。まもなく、日本軍第9師団歩兵第35聯(lián)隊(duì)は、13日朝中山門左側(cè)にある日本軍の砲撃で崩れた城壁の突破口から城內(nèi)に突入した。中山門北面の太平門は南京のもう一つ重要な城門である。太平門を堅(jiān)守する部隊(duì)は教導(dǎo)隊(duì)の一部であり、同門攻撃部隊(duì)は日本軍の第16師団歩兵第33聯(lián)隊(duì)である。12月12日に、激戦をへて、歩兵第33聯(lián)隊(duì)は紫金山の頂上を占領(lǐng)し、さらに「歩三三作命甲第129號」により引き
き天文臺(tái)と太平門へ攻撃する。その「戦闘詳報(bào)」では、「13日朝7時(shí)30分ごろ、第二、第三各大隊(duì)は相次いで天文臺(tái)高地を占領(lǐng)した。同日午前9時(shí)10分に第二大隊(duì)の一部(第六中隊(duì)、機(jī)関銃小隊(duì)、工兵小隊(duì))は太平門を占領(lǐng)し、日章旗が高く城門の上を翻った」(77)と記す。
光華門方面では、12月12日の夜、光華門を堅(jiān)守する中國軍は々と撤退を開始した。13日未明、日本軍は再び光華門に突撃した。日本軍の「歩兵第三十六聯(lián)隊(duì)?wèi)殛L詳報(bào)」の記載によれば、13日未明の4時(shí)ごろ、光華門付近では「銃聲が完全に停止し、投げてくる手榴弾もなかった。第一、第二各大隊(duì)はそこで數(shù)回にわたって斥候を垣に派遣し観察させ、敵のほどんどはすでに退卻したと確認(rèn)してから、第二大隊(duì)長は今突撃せよと下令した。」「朝5時(shí)に、連隊(duì)長は軍旗を捧げて垣に上がってきて、東方の皇宮に向かって遙拝をし、この時(shí)東方の空はすでにほのぼのと白み始めた。」(78)これで光華門は完全に失陥した。
中華門方面では、13日朝3時(shí)に、日本軍歩兵第13聯(lián)隊(duì)第1大隊(duì)第2中隊(duì)が突撃して、中華門西側(cè)の城垣を占領(lǐng)し、そして同大隊(duì)の主力は中華門西側(cè)約200メートル幅の垣を占領(lǐng)し、後部隊(duì)は雲(yún)梯をかけて猛烈な弾雨を冒して城壁を攀じ登った。13日朝5時(shí)ごろ、日本軍は中華門を占領(lǐng)した。南京城壁の西南角および水西門では、12月12日に、日本軍は「砲兵の主力の協(xié)力で、城の西南角にも徹底的に二つの大きな突破口を引き裂いたが、やはり城外の護(hù)城濠および付近にある敵軍の抵抗のために進(jìn)めない。砲兵の數(shù)回にわたっての集中射撃後、午後4時(shí)45分に、歩兵第二十三聯(lián)隊(duì)第一大隊(duì)はついに垣を占領(lǐng)し、夜間はひきつづき垣の上で次第に戦果を拡大した。」(79)13日朝8時(shí)30分ごろ、日本軍第6師団歩兵第23聯(lián)隊(duì)第3大隊(duì)も水西門を占領(lǐng)した。なお、中華門東側(cè)の雨花門は南南京のもう一つの重要な城門であり、鉄道は同門をくぐって通過し、城の內(nèi)外をつながる重要な通路である。12月12日に日本軍が雨花臺(tái)一帯を占領(lǐng)した後、その第114師団は攻撃の重點(diǎn)を中華門方面の城壁および雨花門方面に保持し、しかも第115聯(lián)隊(duì)をして雨花門を攻撃する。12日午後、歩兵第115聯(lián)隊(duì)の一部は雨花門に突入したが、中國軍の猛烈な反撃のため足場は不穏であって、戦果拡大はできなかった。13日未明、日本軍は中國軍が漸次撤退しつつあることを発見したので、城內(nèi)掃蕩を部隊(duì)に命じた。これで、日本軍は完全に雨花門を占領(lǐng)した。

図1-4 1937年12月13日に、日本軍の千葉部隊(duì)は秦淮河を渡って、中華門より入城する。
出典:『支那戦寫真:上海戦
』
12月13日に、南京の東、南、西の各城門を占領(lǐng)したと同時(shí)に、迅速に部隊(duì)を派出し、南京城の東、西両面から下関へ進(jìn)撃させた。それは、下関を占領(lǐng)することを通して、江を渡って北へ撤退しようとする中國軍の退路を切斷し、中國軍を南京城下に包囲·殲滅しようという戦略的目標(biāo)達(dá)成を期するものである。
東南京城では、13日未明、紫金山の北麓を攻撃中の日本軍第16師団は、歩兵第38聯(lián)隊(duì)を主幹とする佐々木支隊(duì)に下関攻撃の命令を下した。「支隊(duì)は今日(13日)引きき重點(diǎn)を左翼保持しながら、敵の中央を突破し下関方面に入るべし」(80)と。同令により、歩兵第38聯(lián)隊(duì)は軽型戦車を先頭に下関へ猛烈に攻撃をかける。同聯(lián)隊(duì)は午後3時(shí)ごろ下関の江岸に進(jìn)攻め入り、中國軍の退路を切斷した。歩兵第38聯(lián)隊(duì)が下関へ追撃すると同時(shí)に、13日午前、歩兵第33聯(lián)隊(duì)も、これから第16師団に直屬し且つ下関へ追撃せよ、という命令を受けた。同聯(lián)隊(duì)第1大隊(duì)は13日午前8時(shí)30分ごろ紅山を占領(lǐng)すると、早速最近の路
に沿って下関方面へ追撃を開始し、午後1時(shí)ごろ下関に進(jìn)み出た。
西南京城では、日本軍第6師団は迂回して下関を包囲するため、早くも12月10日に「左翼隊(duì)は漸次兵力を西北方に移すべし、以て水西門及び漢中門を進(jìn)攻するのを期する。配屬の騎兵第六聯(lián)隊(duì)は、迂回している部隊(duì)を漸次下関一帯に進(jìn)出させ、敵の長江渡りを阻止すべし」(81)と下関攻撃の命令を下した。11日に、第6師団の左翼の主力を擔(dān)當(dāng)する歩兵第45聯(lián)隊(duì)は水西門を攻める計(jì)だったが、同門外にはクリックが
橫しているので攻撃を順調(diào)には展開できず、そこで転じて下関方面へ攻め入った。13日朝、下関へ推進(jìn)中の日本軍は上河鎮(zhèn)付近で、下関から戻り、正面から包囲突破を図ろうとする一萬人ほどの中國の大軍と遭遇戦を交わした。同戦闘は極めて激烈であった。中國軍の方では死傷が想像以上であったが、日本軍も重い打撃を加えられ、日本軍歩兵第45聯(lián)隊(duì)第3大隊(duì)第11中隊(duì)長である大園大尉などは戦死し、數(shù)十人は負(fù)傷した。13日に、日本軍第6師団騎兵第6聯(lián)隊(duì)も中國軍と遭遇戦を交わした。即ち13日朝5時(shí)ごろ、同聯(lián)隊(duì)の戦闘部隊(duì)は水西門外から下関へ迂回して推進(jìn)している途中、棉花堤付近で、下関から南へ包囲突破中の中國軍數(shù)千人と遭遇した。當(dāng)時(shí)周りは闇で、薄霧も瀰漫しているので、遭遇戦は大分混雑した狀態(tài)で、白刃戦もあったが、結(jié)局中國軍は損害が甚大で、已む得ず長江中の江心洲へ撤退した。日本軍の文獻(xiàn)によれば、同遭遇戦における中國軍の死傷は約6000人であったという。(82)
13日の夜、第6師団歩兵第45聯(lián)隊(duì)と騎兵第6聯(lián)隊(duì)は下関に進(jìn)み、先に到達(dá)した日本軍第16師団所轄部隊(duì)と會(huì)合した。このほか、12月11日に安徽省大平北面から長江を渡った日本軍國崎支隊(duì)は、長江の北岸に沿って浦口に進(jìn)撃し、中國軍隊(duì)の抵抗を撃退した後、13日午後下関対岸の浦口を抜き、徹底的に中國軍隊(duì)の渡江による北への退路を切斷した。
江陰、鎮(zhèn)江などいくつもの封鎖を突破した日本海軍第3艦隊(duì)第11戦隊(duì)は、旗艦=安宅號に率いられ、13日午後2時(shí)ごろ下関の江面に現(xiàn)れ、艦砲と機(jī)関銃で長江渡航中の中國軍隊(duì)及び平民に猛射をした。午後5時(shí)に、第11戦隊(duì)の艦艇は下関埠頭に到達(dá)した。(83)

図1-5 下関江面に到著した日本海軍の艦艇
出典:『支那事変寫真全輯(中)』
12月13日に、日本軍上海派遣軍、第10軍の所轄部隊(duì)は、南京城外で東西両方から下関に攻撃し、下関対岸にある浦口を占領(lǐng)した。日本海軍第3艦隊(duì)第11戦隊(duì)の艦艇も下関の江面に出現(xiàn)して、長江を封鎖した。このようにして、日本軍は大體その既定の作戦目的、つまり中國軍の退路を切斷しそれを南京城下に包囲殲滅する、という目的を達(dá)成した。
南京へ攻撃中、日本軍が平民と武器放棄の戦闘員への暴行の中で、最も甚だしきは「殺人試合」という野蠻な行為さえ現(xiàn)れた。
日本軍第16師団第9聯(lián)隊(duì)の向井敏明、野田毅少尉は、南京への進(jìn)軍途中、人間性絶滅の「百人斬り競爭」、つまり誰か先に満100人を殺したら優(yōu)勝、という競合をした。同両校は、1937年11月27日に日本軍が無錫を陥落した時(shí)から試合を開始し、同月29日に常州到著時(shí)で、両
校は計(jì)81名の中國人を斬った。日本の『東京日日新聞』社の
海、光本、安田という3名の特派員は常州駅で同
校にインタビューをした。11月30日の『東京日日新聞』は「百人斬り競爭!/両少尉、早くも八十人」を題に、それを初めて次の通りに報(bào)道した。
その第一に立つ片桐部隊(duì)に「百人斬り競爭」を企てた二名の青年
校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は二十五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊(duì)向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊(duì)野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝屬郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝來の寶刀を語る。(84)
向井と野田が12月2日に部隊(duì)とともに丹陽県城まで進(jìn)攻した時(shí)、その殺人の數(shù)はまた大幅に上った。特にこれまで後れを取っている野田方の數(shù)は一倍ほど増えた。同二人は今では延べ151人を斬った。12月4日に、『東京日日新聞』は「急速躍進(jìn) 百人斬り試合の過」を題に、「殺人競爭」を次の通り2回目報(bào)道した。
南京までに『百人斬りの競爭』を開始した〇〇部隊(duì)の急先鋒片桐部隊(duì)、富山部隊(duì)の二青年校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以來の奮戦を重ね、二日午後六時(shí)丹陽入場(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となった。(85)
12月5日に、句容前まで斬り
けてきた向井と野田は、それぞれ89人と78人を斬った。二人の數(shù)の差もさらに縮小した。それで
海と光本両特派員はさっそく本社へ「百人斬り」試合に関する三回目のニュースを打電した。『東京日日新聞』はまもなく「『百人斬り』大試合 勇壯!向井、野田両少尉!89∶78」を題に次の通り報(bào)道した。
南京をめざす「百人斬り競爭」の二青年校、片桐部隊(duì)向井、野田両少尉は句容入城にも最前
に立って奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名という接戦となった。(86)
12月10日晝ごろ、向井と野田は南京東郊の紫金山の麓で再會(huì)した。この時(shí)二人の戦績はは106∶105であるが、しかし一體だれが先に100人目を殺したのか分からないから、改めて150人を目処にもう一回の斬り試合を開始した。『東京日日新聞』は「百人斬り超記録 向井∶106-野田∶105 両少尉延長戦を」を題に、そして佐藤振壽が常州城外で二人のために撮った寫真もつけて、12月13日付の記事で「百人斬り」を次の通り4回目報(bào)道した。
南京入りまで“百人斬り競爭”という珍競爭を始めた例の片桐部隊(duì)の勇士向井敏明、野田(前報(bào)の野田毅——引用者注)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五というレコードを作って、10日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した野田「おいおれは百五だが貴樣は?」向井「おれは百六だ!」……両少尉は“アハハハ”結(jié)局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結(jié)局二人はすぐに「ぢやドロンゲームと致さう、だれが改めて百五十人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。(87)
向井と野田の「百人斬り」競爭は、日本軍の南京へ侵攻途中の激戦を背景としたが、しかし二人の中で、一人は砲兵小隊(duì)長で、もう一人は大隊(duì)附けで、共に第一で突撃する普通の兵士ではないし、しかも
際の戦闘中でいつも刀で敵の兵士を滅ぼすわけでもないので、同二人に虐殺された大多數(shù)の対象は手元には何ら抵抗手段もない百姓と武器放棄
みの兵士だったことは明白であろう。向井、野田が帰國後それぞれ母校側(cè)に「英雄」として歓迎·要請され、後輩の學(xué)生らに「百人斬り」の「勇況」を講演した。
二 途中各地で犯した暴行
南京へ攻撃する途中で、日本軍は焼く、殺す、強(qiáng)姦する、略奪すること、何でもやり、南京近郊の各地區(qū)に、夥しい人命死傷と財(cái)産損失をもたらした。
無論、ここで指摘しておかなければならぬのは、日本軍の暴行は、単に南京近郊にあっただけではなく、その戦爭行為にずっと伴われたものだ。は、華中方面軍が南京へ進(jìn)撃する出発地としての淞滬(上海)地域から、日本軍はシリーズ的暴行を犯した。
1937年12月初め、日本軍第16師団は南京肉薄の先頭部隊(duì)として、丹陽より句容—湯山の間の地區(qū)に入った。第16師団の侵攻路と大體同じであった第3師団所轄の歩兵第34聯(lián)隊(duì)分隊(duì)長の曽根一夫の記述によれば、自分の部隊(duì)は句容付近のある村落で食糧を徴発する時(shí)、野呂など5名の兵士が行方不明になって、「そこで班長は夜に入って村民が全部寢入ったあと放火して村落全體を焼き壊そうと決めた。……深夜になって村民はみな寢入った時(shí)、われわれは土墻を超えていたところに放火したが、すぐに火勢が蔓延していき、四方八方へ飛び散らして、村落全體を焼き潰した。熟睡中から大火に起こされた民衆(zhòng)は、俺先に狼狽して逃げ出した。と、我々は隙をみて突撃を展開し、村民に遭うと殺し、ただ十?dāng)?shù)分間でもう誰一人動(dòng)いている姿も見えなくなり、あちこちにと死體が散らばっている」(88)、という。
日本軍は12月6日に湯山北面の湖山村に入ってから、絶えず殺人したり、放火したり、娘を求めたりした。ただ8日という一日にでも、11名の村民が日本軍に殺された。村民の戴志善の回顧によれば、
舊暦の十一月六日に、村の東だったが、右は戴興雲(yún)の家で、左は戴大林の家で、両家の裏の排水溝の中に11人が隠れていたが、日本軍に捕まれて、戴氏宗祠の前に殺された。遭難者は戴昌(40歳余)、戴大林(50歳ぐらい)、戴大鈞(50歳ぐらい)、陳開栄(30足らず、その子は今健在)、王立栄(40歳ぐらい)、戴大金(50歳ぐらい)、戴興余(二十七、八ぐらい)、戴昌述(40足らず、その娘は安徽に嫁がれた)で、もう一人の遭難者はここに避難している職人である。王立栄が頭を斬られたほか、全員は銃剣で刺されて死んだのだ。(89)
という。
湯山鎮(zhèn)所轄の孟塘村と湖山村は同じ日に日本軍に占領(lǐng)された。孟塘村における日本軍の暴行は、同村民に悲慘な記憶をした。王賢珍(婦人)の思い出によれば、「冬月の初四(12月6日——引用者注)……二日間も爆弾を落とされた後、村は鬼子(日本軍——訳者注)に入られた。橋にいる數(shù)少なくない村民は爆弾に命を奪われた。家の若いおばちゃんと舅(44)は自宅に駆け戻ろうと、途中で鬼子に銃殺された。私は、ある張という五六十歳の年寄りとその五六歳の男の子がそのまま日本人に死ぬまで蹴られ
けたことを目撃した。夜になると、村民らは往々に村に戻って埋めておいた食糧を持ち出そうと思ったが、多くの人は途中で鬼子に殺された……鬼子が村に入ってから、花子さんを求め始めたのだが、協(xié)力しないと殺されるのだった。」(90)
12月8日に、日本軍は湯山鎮(zhèn)を占領(lǐng)すると、同鎮(zhèn)の周りにある村落でも暴行を施し始めた。村民の張禮海の思い出には、少女輪姦、村民慘殺などの日本軍によった暴行は、今でもはっきりと覚えている。彼は、「初六(12月8日——引用者注)の日の午後3時(shí)ごろのことだった。太陽が西へ傾き始めた時(shí)、七人の日本兵が湯山の山頂の砲臺(tái)から下りて、臥牛山で16歳の少女を輪姦してから、松の枝を少女のアソコに挿しいれて殺した。その少女は張肖荘の人で、みんなから『大丫頭』と呼ばれたが。」それから同七名の日本兵は於右任別荘の地下の洞穴の入り口まで來て、洞穴に隠れている15人の村民に捜査を受けるようと命令したが、その場で勝手に同15人を殺した。(91)
上峰鎮(zhèn)は湯山鎮(zhèn)の南に位し、湯山鎮(zhèn)とほぼ同時(shí)に日本軍に占領(lǐng)された。同鎮(zhèn)の姚家辺村は日本軍の蹂躙を飽くまで受けた。同村民の陳恩貴は姚家辺における日本軍の強(qiáng)姦、虐殺、放火諸暴行を次の通り語っている。
舊暦の冬月初五(1937年12月7日)に、わが姚家辺に二人の鬼子が來た。鬼子の手には銃はなく、刀だけあった。同二人は陳起瑞の糟坊(酒工場)のドアを閉めて二人の婦人を強(qiáng)姦した。中の一人の婦人は酒工場にあるベッドに即死したが、もう一人の婦人は酒工場を逃げ出して、外で自殺した。この二人の鬼子は強(qiáng)姦を終えてから、村に隠れている外から避難に來た三十?dāng)?shù)人を一概に酒造り場に集め、一人一人と縛り、刀で殺した後、放火し酒造り場を焼き潰した。(92)
12月8日以後、日本軍の戦は紫金山から雨花臺(tái)、江寧鎮(zhèn)に至る
の內(nèi)
陣地にまで推し進(jìn)め、その推進(jìn)を伴う暴行の発生地點(diǎn)も、いよいよ城壁に接近していく。
戦爭犯罪中國軍事法廷が「谷壽夫戦犯案判決書」の添付ファイル中の記載によれば、12月9日に蔣東旺、蔣海疇、蔣海洋、蔣海青ら4人の農(nóng)民は向花村に殺された。12月10日に労働者の邵源嶺は窯灣街で、商人の王貴錫は言語不通の原因で能仁里第64號に殺されたほか、婦人の王孫氏は井二村に機(jī)関銃で射撃され死んだ。僧侶の道純は養(yǎng)回紅村に銃殺された。12月11日に農(nóng)婦の尹陸氏は高輦村に銃殺され、小売りの董新福とその子の董志慎は鄧府山に日本軍が強(qiáng)要する財(cái)物を提供されなかったので殺され、農(nóng)婦の賈紅英は賈家村に殺された、という。(93)12月11日に、城の西にある江東郷では一回だけで12名の村民が日本軍に殺された。それに、「1937年の舊暦の冬月初九に、四匹の馬に乗った日本軍が向こう側(cè)の運(yùn)糧河からこちらの方へ來たのを見たが、うちの村人らはそれを見たらすぐ身を隠した。村に入った日本人が村には誰一人もないのを見て大聲で叫んだが、後に13人の村民を龍王廟に連行した。中で彭二牛というものが逃げてしまったので、逃げた奴は中央軍の兵士だと日本人は認(rèn)めて、りの12人を全員殺した。中にうちの三番目、四番目の叔父さんも入っている」(94)と、村民の朱広洪は語っている。
12月12日に、日本軍の暴行はさらに孝衛(wèi)街—雨花臺(tái)—雙閘—三汊河というアーチ形の地區(qū)に延びた。「谷壽夫戦犯案判決書」の付録に記載されている散発虐殺事件に限ってみても、この日に同アーチ形の地區(qū)では120件発生し、計(jì)127人が殺された。中で、農(nóng)民の殷壽江は孝衛(wèi)街東洼村に、市民の曹文黨ら7人は雨花臺(tái)に、市民の胡長生ら6人は雨花路に、市民の李発來ら6人は沙洲圩にそれぞれ殺され、また平民の張得洪、陳老二、陳二子は雙閘鎮(zhèn)25號に銃剣で、商人の張炳隆は上新河南街36號に、農(nóng)婦の李徐氏と任氏は三汊河北圩村20號におのおの銃殺された。(95)僧侶の隆海は、「本人は長生寺の僧侶で、この目で南京近郊占領(lǐng)後の日本軍がうちの寺まで來て出家人計(jì)十九名を小銃で集団射殺したことを目撃した」(96)と語る。同日の夜6時(shí)に、日本軍は中華門外西街145號の市民の王福和、張書新、張馬氏、張玉根、張玉福、張小六子、張小狗子ら11人を悉皆銃殺したが、中でただ張玉発一人だけが負(fù)傷し、死ななかった。(97)同日に、日本軍は西羊巷で煙と銃剣で、地下の洞穴に隠れている村民のうちの22人を殺した。(98)
三 英米の艦船に対する襲撃
南京攻撃が全面に展開した後、同城陥落直前のことであったが、中國軍が船で逃れる退路を斷つため、日本軍機(jī)はアメリカの艦船を爆撃それを沈沒させたことと、イギリスの軍艦を砲撃したこと、という厳重な外交事件があった。
すなわち、12月12日午前、南京上流20キロのところに泊まっているアメリカ砲艦のパナイ號は、日本軍の軍艦から絶えず砲撃されたので、被爆される危険を避けるため、パナイ號はさらに上流へ移動(dòng)を開始した。10時(shí)ごろ、同艦は約30名の武裝たっぷりの日本軍兵士の脅威と邪魔をかけられた。後にパナイ號は南京上流43キロのところに停船した。この時(shí)點(diǎn)、同艦上には兵計(jì)59人あり、中では大使館の役員は4人、及び英、米、伊諸國の新聞?dòng)浾撙壬鐔Tら10余人あった。艦上は何枚ものアメリカの國旗が掲げられている。同日の午後、日本機(jī)は數(shù)回にわたってパナイ號およびモビール(Mobil)社所有の三隻の商船を爆撃·掃射し、ついに「パナイ號」および商船の「米平號」と「米霞號」を撃沒した。
パナイ號被爆事件の中で、4人が死亡、3人が重傷、12人が軽傷であった。死亡の4人はイタリア記者のサンドリ(Sandro Sandri)、米霞號のカルソン(Carlson)船長、エンスミンガ
(Charles L.Ensminger)上士、フルセバス(Edgar C.Hulsebus)舵手であった。(99)
日本軍機(jī)が米艦パナイ號とその付近にある商船を爆撃する同時(shí)に、日本軍第18師団配屬の野戦重砲第13聯(lián)隊(duì)も、橋本欣五郎大佐の指揮下で、12日午前蕪湖付近でイギリスの軍艦であるレディバード號を砲撃し、英軍の兵に多數(shù)の死亡を出させた。クレーギー(Robert L.Craigie)日本駐在英國大使はその広田外相宛ての照會(huì)の中で、「イギリスの領(lǐng)事、イギリスの陸軍武官およびイギリスの揚(yáng)子江海軍少
副參謀長らが搭乗するタグボートが蕪湖の江面まで航行した後、搭乗者はイギリスの軍艦レディバード號に登ろうとした時(shí)、同タグボートは日本側(cè)の機(jī)関銃に射撃された。……ほかに、イギリスの商船の綏和號も一発の砲弾に命中された。イギリスの軍艦の蜂號も現(xiàn)場にすぐ到著したが、同じく沿岸の砲兵に攻撃された。」しかし、橋本欣五郎は、次のように弁解する。「江にある一切の船舶に射撃せよ、との命令をうけた」、「いかなる船舶でも、江を移動(dòng)するものさえあれば砲撃せよ、と」(100)イギリスの揚(yáng)子江ロイヤル·ナビー(RN)の指揮官の報(bào)告によれば、レディバード號が砲撃されたあとの損害といえば、「一発の砲弾は左舷喫水
31のところに當(dāng)たった。燃料箱第3號に繋がっている燃料箱第2號には一つの穴ができた。水と油は混ぜあって、第31と第32との間の空間を浸した。巻き上げ機(jī)の蒸気管が破裂した。前甲板には四か所衝突を受けた。6インチの機(jī)関砲がばらばらに裂けて、ライフルが壊された。
校の寢室と浴室も壊された。一発の砲弾は船室の甲板上のボイラーを壊した。ランエガンが左船88、89の位置に遭難した。」(101)という。
日本軍が南京攻撃の過程で、國際規(guī)則を無視し、公然と米英船に攻撃を加えた。事後日本が必要な姿態(tài)をしめし、善後の措置もとったが、しかし畢竟その後の対英米関係にはマイナスの影響をもたらした。
(1) 「國民政府定都南京宣言」(1927年4月18日)、中國第二歷史檔案館編『中華民國史檔案資料彙編』第五輯第一篇政治(一)、江蘇古籍出版社1994年版、第1頁。
(2) 「市政廳成立及劉市長就職紀(jì)」、『南京特別市市政公報(bào)補(bǔ)編』、1927年4月至8月、“紀(jì)事”、第1頁、中國第二歷史檔案館所蔵。
(3) 南京地方文獻(xiàn)委員會(huì)編『南京』、1948年3月、第24頁、中國第二歷史檔案館所蔵。
(4) 國民政府行政院檔案、中國第二歷史檔案館所蔵、文書分類番號二(1)、文書番號9442。
(5) 南京市地方文獻(xiàn)委員會(huì)編『南京』、1948年3月、第24頁、中國第二歷史檔案館所蔵。
(6) 南京市地方誌編纂委員會(huì)編纂『南京建置志』、海天出版社1994年版、第235頁。
(7) 南京市地方文獻(xiàn)委員會(huì)編『南京』、1948年3月、第24頁、中國第二歷史檔案館所蔵。
(8) 南京市地方誌編纂委員會(huì)編纂『南京建置志』、海天出版社1994年版、第235頁。
(9) 「南京市政府関於難民遣送致軍事委員會(huì)後方勤務(wù)部公函」(1937年11月23日)、中國第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1987年版、第702頁。
(10) 中國第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1987年版、第705頁。
(11) 孫宅巍『民國史論叢』、江蘇人民出版社2010年版、第85—86頁。
(12) 孫宅巍『澄清歷史——南京大屠殺研究與思考』、江蘇人民出版社2005年版、第183頁。
(13) 張連紅「南京大屠殺前夕南京人口的變化」、『民國檔案』2004年第3期。
(14) 「首都警察廳為報(bào)告派員參加南京市難民救委員會(huì)經(jīng)過情形致內(nèi)政部呈」(1937年9月6日)、國民政府內(nèi)政部檔案、中國第二歷史檔案館所蔵、文書分類番號十二(1)、文書番號4898。
(15) 中國第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第920—921頁。
(16) 中國第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第921頁。
(17) 世界紅十字會(huì)南京分會(huì)「民國二十六年至三十四年慈善工作報(bào)告書」、1945年、南京市檔案館所蔵、文書番號1024-1-34521。
(18) 「程瑞芳日記」(一)、『民國檔案』2004年第3期。
(19) 「世界紅十字會(huì)上海分會(huì)関於赴京辦理掩埋工作的報(bào)告」(1938年3月18日)、『檔案與史學(xué)』1997年8月第4期。
(20) [日]日本防衛(wèi)庁防衛(wèi)研究所戦史室著、齊福霖訳『中國事變陸軍作戰(zhàn)史』第一卷第二冊、中華書局1981年版、第5頁。
(21) 「臨參命第138號」(昭和12年11月7日)、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第4頁。
(22) 「松井石根陣中日誌」、張憲文主編、王衛(wèi)星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第140頁。
(23) 「華中方面軍命令」(1937年12月1日)、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第22頁。
(24) 「日機(jī)昨進(jìn)襲首都」、『申報(bào)』1937年8月16日、第2版。
(25) 「第一聯(lián)合航空隊(duì)?wèi)?zhàn)闘詳報(bào)」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第57冊『日軍文獻(xiàn)(下)』、江蘇人民出版社2010年版、第783—785頁。
(26) 「第三艦隊(duì)機(jī)密第347號電」(1937年9月14日)、張憲文主編、王衛(wèi)星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日軍軍方文件與官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第295頁。
(27) 「二聯(lián)空訓(xùn)示第五號」(1937年9月17日)、張憲文主編、王衛(wèi)星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日軍軍方文件與官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第297—298頁。
(28) 「首都天空大戰(zhàn) 我空軍迭奏奇功」、『申報(bào)』1937年9月23日付、第1面。
(29) 「敵機(jī)昨五次襲京」、『申報(bào)』1937年9月26日付、第2面。
(30) 「日機(jī)大隊(duì)襲京 中山門外至西華門大街貧民區(qū)域被炸慘不忍睹」、『申報(bào)』1937年12月6日付、第2面。
(31) 「完全掌握整個(gè)支那的制空權(quán) 空襲南京五十餘次」、『東京日日新聞』1937年12月18日、張憲文主編、王衛(wèi)星編、何慈毅、李斌他訳『南京大屠殺史料集』第58冊『〈東京日日新聞〉與〈大阪每日新聞〉報(bào)導(dǎo)』、江蘇人民出版社2010年版、第244頁。
(32) 『蔣介石日記』、スタンフォド大學(xué)フ
ヴァ
公文書館所蔵蔣介石日記のコピ一件。
(33) 劉斐「抗戰(zhàn)初期的南京保衛(wèi)戰(zhàn)」、中國人民政治協(xié)商會(huì)議全國委員會(huì)文史資料研究委員會(huì)「南京保衛(wèi)戰(zhàn)」編審組編『南京保衛(wèi)戰(zhàn)』、中國文史出版社1987年版、第8—9頁。
(34) 劉斐「抗戰(zhàn)初期的南京保衛(wèi)戰(zhàn)」、中國人民政治協(xié)商會(huì)議全國委員會(huì)文史資料研究委員會(huì)「南京保衛(wèi)戰(zhàn)」編審組編『南京保衛(wèi)戰(zhàn)』、中國文史出版社1987年版、第9頁。
(35) 『蔣介石日記』、スタンフォド大學(xué)フ
ヴァ
公文書館所蔵蔣介石日記のコピ一件、1937年11月26日。
(36) 第三戦區(qū)司令長官部編「抗戰(zhàn)紀(jì)實(shí)」、中國第二歷史檔案館所蔵、文書分類番號七八七、文書番號3944。
(37) 「蔣介石致唐生智電」(1937年11月25日)、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第400頁。
(38) 「第三戰(zhàn)區(qū)南京會(huì)戰(zhàn)經(jīng)過概要」、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第415頁。“A”、“D”はそれぞれ軍、師の意味である。第10軍は第2軍団のこと。
(39) 「中方作命第27號」(1937年12月4日)、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第24頁。文中の“小衛(wèi)”につき、“似為孝衛(wèi)街”と編纂者は注をつけている。
(40) 「南京衛(wèi)戍軍戰(zhàn)闘詳報(bào)」、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第409頁。
(41) 「第二軍団京東戰(zhàn)役戰(zhàn)闘詳報(bào)」、張憲文主編、馬振犢他編『南京大屠殺史料集』第2冊『南京保衛(wèi)戰(zhàn)』、江蘇人民出版社2005年版、第152—153頁。
(42) 「第二軍団京東戰(zhàn)役戰(zhàn)闘詳報(bào)」、張憲文主編、馬振犢他編『南京大屠殺史料集』第2冊『南京保衛(wèi)戰(zhàn)』、江蘇人民出版社2005年版、第153—154頁。“R”は団のこと。
(43) 「陸軍第七十八軍南京會(huì)戰(zhàn)詳報(bào)」(1938年1月)、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第421頁。
(44) 「南京衛(wèi)戍軍戰(zhàn)闘詳報(bào)」、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第409頁。
(45) 「第五十一師戰(zhàn)闘詳報(bào)」(1938年1月)、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第427頁。
(46) 「首都東南郊大激戰(zhàn) 我第一防務(wù)鞏固」、『大公報(bào)』(漢口版)1937年12月9日付、第2面。
(47) 「熊本兵団戰(zhàn)史——支那事變」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文獻(xiàn)(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第418—419頁。
(48) 「軍事委員會(huì)侍從室第一處主任錢大鈞匯轉(zhuǎn)南京衛(wèi)戍司令長官唐生智副司令長官羅卓英、劉興呈蔣委員長為衛(wèi)戍南京未能持久守備自請?zhí)幏謭?bào)告」、秦孝儀主編『中華民國重要史料初編——對日抗戰(zhàn)時(shí)期』第二編『臨戰(zhàn)經(jīng)過』(二)、中國國民黨中央委員會(huì)黨史委員會(huì)1981年9月印行、第224頁。
(49) 陸軍省新聞班編「支那事變經(jīng)過概要」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日軍軍方文件與官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第25—26頁。
(50) 「陸軍第七十八軍南京會(huì)戰(zhàn)詳報(bào)」(1938年1月)、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第422頁。
(51) 「中方作命第34號」、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第30頁。
(52) 「松井石根陣中日誌」、張憲文主編、王衛(wèi)星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第147頁。
(53) 島田勝巳「步兵第三十三聯(lián)隊(duì)史——光榮的50年歷程」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文獻(xiàn)(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第277頁。
(54) 「牧原信夫日記」、張憲文主編、王衛(wèi)星編『南京大屠殺史料集』第8冊『日軍官兵日記』、江蘇人民出版社2005年版、第602頁。
(55) 「步兵第三十三聯(lián)隊(duì)南京附近戰(zhàn)闘詳報(bào)」、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第83頁。
(56) 「松井與山本對談」、『文摘』第11號、1938年2月。
(57) 「第九師団戰(zhàn)史」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文獻(xiàn)(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第121頁。
(58) 「軍事委員會(huì)侍從室第一處主任錢大鈞匯轉(zhuǎn)南京衛(wèi)戍司令長官唐生智副司令長官羅卓英、劉興呈蔣委員長為衛(wèi)戍南京未能持久守備自請?zhí)幏謭?bào)告」(1937年12月24日)、秦孝儀主編『中華民國重要史料初編——對日抗戰(zhàn)時(shí)期』第二編『臨戰(zhàn)經(jīng)過』(二)、中國國民黨中央委員會(huì)黨史委員會(huì)1981年9月印行、第224頁。
(59) 「第二軍団京東戰(zhàn)役戰(zhàn)闘詳報(bào)」、張憲文主編、馬振犢他編『南京大屠殺史料集』第2冊『南京保衛(wèi)戰(zhàn)』、江蘇人民出版社2005年版、第157頁。
(60) 「南京衛(wèi)戍軍戰(zhàn)闘詳報(bào)」、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第412頁。
(61) 宮部一三「風(fēng)雲(yún)南京城」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第33冊『日軍官兵回憶』、江蘇人民出版社2007年版、第42頁。
(62) 「鯖江步兵第三十六聯(lián)隊(duì)史」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文獻(xiàn)(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第142—143頁。
(63) 宮部一三「風(fēng)雲(yún)南京城」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第33冊『日軍官兵回憶』、江蘇人民出版社2007年版、第33頁。
(64) 西澤弁吉「我們的大陸戰(zhàn)記——步兵第六十六聯(lián)隊(duì)第三中隊(duì)的歷程」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第57冊『日軍文獻(xiàn)(下)』、江蘇人民出版社2010年版、第712頁。
(65) 「陸軍第八十八師京滬抗戰(zhàn)紀(jì)要」、張憲文主編、馬振犢他編『南京大屠殺史料集』第2冊『南京保衛(wèi)戰(zhàn)』、江蘇人民出版社2005年版、第177頁。
(66) 「大分第四十七聯(lián)隊(duì)奮戰(zhàn)記」、張憲文主編、曹大臣編、羅文文、谷肖梅他訳『南京大屠殺史料集』第62冊『日軍第六師団官兵回憶』、江蘇人民出版社2010年版、第109頁。
(67) 譚道平『南京衛(wèi)戍戰(zhàn)史話』、東南文化事業(yè)出版社1946年版、第69頁。
(68) 邱維達(dá)「淳化狙擊戰(zhàn)」、中國人民政治協(xié)商會(huì)議全國委員會(huì)文史資料研究委員會(huì)「南京保衛(wèi)戰(zhàn)」編審組編『南京保衛(wèi)戰(zhàn)』、中國文史出版社1987年版、第150頁。
(69) 「熊本兵団戰(zhàn)史——支那事變」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文獻(xiàn)(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第428—429頁。
(70) 「第五十一師戰(zhàn)闘詳報(bào)」(1938年1月)、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第428頁。
(71) 唐生智「衛(wèi)戍南京之經(jīng)過」、中國人民政治協(xié)商會(huì)議全國委員會(huì)文史資料研究委員會(huì)「南京保衛(wèi)戰(zhàn)」編審組編『南京保衛(wèi)戰(zhàn)』、中國文史出版社1987年版、第4—5頁。
(72) 「南京衛(wèi)戍軍戰(zhàn)闘詳報(bào)」、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第413頁。
(73) 「南京衛(wèi)戍軍戰(zhàn)闘詳報(bào)」、中國第二歷史檔案館編『抗日戰(zhàn)爭正面戰(zhàn)場』上冊、江蘇古籍出版社1987年版、第414頁。
(74) 「徐源泉致蔣介石密電」(1937年12月23日)、中國第二歷史檔案館所蔵、文書分類番號七八七、文書番號693。
(75) 孫宅巍『南京保衛(wèi)戰(zhàn)史』、五南図書出版公司1997年版、第237—241頁。
(76) 「糸井手記」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日本軍方文件與官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第408頁。「大野部隊(duì)」は日本軍第16師団步兵第20聯(lián)隊(duì)のこと、聯(lián)隊(duì)長は大野宣明大佐であった。
(77) 「步兵第三十三聯(lián)隊(duì)南京附近戰(zhàn)闘詳報(bào)」、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第85頁。
(78) 「步兵第三十六聯(lián)隊(duì)南京戰(zhàn)闘詳報(bào)」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、葉琳他訳『南京大屠殺史料集』第32冊『日本軍方文件與官兵日記』、江蘇人民出版社2007年版、第167頁。
(79) 「第六師団戦時(shí)旬報(bào)第13、14號」、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第274—275頁。
(80) 「佐佐木支隊(duì)命令」、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第46頁。
(81) 「六師作命甲第81號」、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第265頁。
(82) 「熊本兵団戰(zhàn)史——支那事變」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、劉軍、羅文文他訳『南京大屠殺史料集』第56冊『日軍文獻(xiàn)(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第433—434頁。
(83) 「支那事變帝國海軍的行動(dòng)」、張憲文主編、王衛(wèi)星、雷國山共編『南京大屠殺史料集』第11冊『日本軍方文件』、江蘇人民出版社2006年版、第336頁。
(84) 「“百人斬”競賽!兩少尉已超過80人」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、何慈毅、李斌他訳『南京大屠殺史料集』第58冊『〈東京日日新聞〉與〈大阪每日新聞〉報(bào)導(dǎo)』、江蘇人民出版社2010年版、第95頁。
(85) 「急速躍進(jìn) “百人斬”競賽的經(jīng)過」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、何慈毅、李斌他訳『南京大屠殺史料集』第58冊『〈東京日日新聞〉與〈大阪每日新聞〉報(bào)導(dǎo)』、江蘇人民出版社2010年版、第112頁。
(86) 「“百人斬”大比賽勇壯!向井、野田兩少尉!89∶78」、張憲文主編、張生他編、雷國山他訳『南京大屠殺史料集』第34冊『日本軍國主義教育·百人斬與駐寧領(lǐng)館史料』、江蘇人民出版社2007年版、第21頁。
(87) 「“百人斬”超記錄 向井:106-野田:105 兩少尉進(jìn)行延長戰(zhàn)」、張憲文主編、王衛(wèi)星編、何慈毅、李斌他訳『南京大屠殺史料集』第58冊『〈東京日日新聞〉與〈大阪每日新聞〉報(bào)導(dǎo)』、江蘇人民出版社2010年版、第212—213頁。
(88) 「日軍士兵曾根一夫〈私記南京大屠殺〉」(節(jié)錄)、中央檔案館、中國第二歷史檔案館、吉林省社會(huì)科學(xué)院共編『日本帝國主義侵華檔案資料選編·南京大屠殺』、中華書局1995年版、第995頁。
(89) 「戴志善口述」、張憲文主編、張連紅、戴袁支共編『南京大屠殺史料集』第26冊『幸存者調(diào)査口述(中)』、江蘇人民出版社2006年版、第867頁。
(90) 「王賢珍口述」、張憲文主編、張連紅、戴袁支共編『南京大屠殺史料集』第26冊『幸存者調(diào)査口述(中)』、江蘇人民出版社2006年版、第888頁。
(91) 「張禮海口述」、張憲文主編、費(fèi)仲興、張連紅共編『南京大屠殺史料集』第27冊『幸存者調(diào)査口述(下)』、江蘇人民出版社2006年版、第1182—1184頁。
(92) 「陳恩貴口述」、張憲文主編、費(fèi)仲興、張連紅共編『南京大屠殺史料集』第27冊『幸存者調(diào)査口述(下)』、江蘇人民出版社2006年版、第1218頁。
(93) 「谷壽夫戰(zhàn)犯案判決書附件関於分散屠殺部分統(tǒng)計(jì)節(jié)錄」(1947年)、中國第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第322頁。
(94) 「朱廣洪口述」、張憲文主編、張連紅、張生共編『南京大屠殺史料集』第25冊『幸存者調(diào)査口述(上)』、江蘇人民出版社2006年版、第144頁。
(95) 「谷壽夫戰(zhàn)犯案判決書附件関於分散屠殺部分統(tǒng)計(jì)節(jié)錄」(1947年)、中國第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第291—348頁。
(96) 「日軍在長生寺集體殺害市民的調(diào)查表節(jié)錄」(1946年7月20日)、中國第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第291—348頁。
(97) 「谷壽夫戰(zhàn)犯案判決書附件関於分散屠殺部分統(tǒng)計(jì)節(jié)錄」(1947年)、中國第二歷史檔案館、南京市檔案館共編『侵華日軍南京大屠殺檔案』、江蘇古籍出版社1997年版、第165頁。
(98) 「孫育才口述」、張憲文主編、張連紅、張生共編『南京大屠殺史料集』第25冊『幸存者調(diào)查口述(上)』、江蘇人民出版社2006年版、第57頁。
(99) 「美國亞洲艦隊(duì)司令(亞內(nèi)爾)致國務(wù)卿」(1937年12月23日)、張憲文主編、楊夏鳴編、楊夏鳴、張志剛共訳『南京大屠殺史料集』第63冊『美國外交文件』、江蘇人民出版社2010年版、第250—251頁。
(100) 「克萊琪大使致廣田外相的照會(huì)」(1937年12月30日)、張憲文主編、曹大臣編、雷國山他訳『南京大屠殺史料集』第67冊『東京審判(=東京裁判)日方文獻(xiàn)及報(bào)導(dǎo)(上)』、江蘇人民出版社2010年版、第33—34頁。
(101) 「日軍對英國皇家軍艦瓢蟲號(=「レディバード號」)的攻擊」(1937年12月14日)、張憲文主編、張連紅、陳謙平編、仇蓓玲、秦文華他訳『南京大屠殺史料集』第31冊『英國使領(lǐng)館文書』、江蘇人民出版社2007年版、第22頁。ランエガンは「レディバード」號の碇泊助手擔(dān)當(dāng)であった。