- 跨語言文化研究(第十五輯)
- 王啟龍 曹婷主編
- 3209字
- 2021-10-11 17:49:17
2 渡邊實的敬語分類與敬語史研究的關系
從上面對幾種主要的敬語分類作出的批判性的介紹可以看出,每一種敬語分類都可以對日語敬語史作出一番描述,這是不爭的事實。但是,哪一種敬語分類對敬語史具有最有效的解釋性,則是各不相同的。前節提到的敬語分類中,傳統的三分法和時枝誠記的分類既然在邏輯分析和分類原則上存在嚴重問題,那用它來描述日語敬語史的有效性必然值得懷疑。辻村敏樹和宮地裕的敬語分類也不例外,因為缺乏層次性的分類自然不具備對語言事實描寫的體系性。例如,宮地裕對敬語史的描述是否既揭示日語敬語史的本質性屬性,同時又能與其他日語史的現象,比如人稱詞的體系、指示詞與人稱體系的關系等語法范疇保持相關性,都不能令人滿意。

以如此的敬語分類,我們就「丁重語」「丁寧語」「美化語」三者在敬語史上的意義就會迷失日語敬語史是以「聞手尊敬」(尊敬聽話者)從無到有為其歷史變化為主流的大方向。
有關日語敬語史的主要先行研究
有關日語敬語史的研究中,金田一京助的「絶対敬語」「相対敬語」的觀點曾普遍被人接受。所謂「絶対敬語」「相対敬語」,就是,是否使用敬語和使用哪一類敬語取決于表示敬意的對象的地位和身份等因素。所謂「絶対敬語」,就是使用敬語和使用哪一類敬語并不取決于表示敬意的對象的地位和身份等因素。日語敬語史的歷史走向是從上代日語的「絶対敬語」到現代日語的「相対敬語」的演變。
這一觀點有幾個問題值得探討。一是,所謂「絶対敬語」「相対敬語」二者的內涵也有失簡單化。二是,這個觀點盡管對上代日語和現代日語兩個對比鮮明跨度逾一千三四百年之久的兩個敬語體系間的差異具有很強的說服力,但是無法解釋兩個體系間的中間形態即保證二者之間連續性的環節。下面我們就逐一探討這兩點。就第一點而言,現代日語的敬語體系是否為「相対敬語」姑且不論,上代日語的敬語體系是否可以「絶対敬語」一言蔽之,是值得我們注意的。
但是,上代日語的敬語體系是“絕對敬語”嗎?上代日語的敬語中,「給ふ」「います」等典型的與敬意的對象的身份地位相應的敬語動詞是只用于女子對男人之間,沒有相反的例子。請看《萬葉集》第一首和歌的例子:
籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ちこの岡に菜摘ます児家告らせ名告らさねそらみつ大和の國は押しなべて我こそ居れしきなべて我こそいませ我こそば告らめ家をも名をも(萬·卷一·0001)
盡管「す」一般認為敬意較輕,而且有時還用在天皇的「自敬表現」。但是,這里出現在天皇對素不相識的民間少女的和歌里。這不能不令我們對上代日語的敬語是「絶対敬語」這一觀點產生懷疑。那么,日語史上,確實曾經有過一個「絶対敬語」的時代嗎?
還有另外一個現象也同樣說明問題之所在也在「絶対敬語」上。下面的兩個例子是女性對男性用的,這里就沒有用敬語形式。
卯の花の咲き散る岡ゆほととぎす鳴きてさ渡る君は聞きつや(萬·10·1976)
人言を繁みと君に玉づさの使ひも遣らず忘ると思ふな(萬·11·2586)
而下面的例子是對天皇也沒有使用敬語的例子。
久方の天行く月を網にさし我が大君はきぬがさにせり(萬·3·240)
大君は神にましませば赤駒の腹這ふ田居を都となしつ(萬·19·4260)
不論和歌的作者地位有多高,如果對天皇這樣尊貴的人,也可以不用敬語的話,這無疑說明,上代日語敬語并非屬于「絶対敬語」[11]。
以上的簡單分析就可以說明,在上代日語里,敬語的使用一方面與敬意指向的對象的地位身份緊密相連,同時也有一定的靈活性。這種靈活性基本上是說話人可以根據自己與對方之間的關系事實上是否密切,或者根據雙方關系的密切程度在敬語使用上作出調整。就是說,即使我們把上代日語的敬語體系用「絶対敬語」來描述,也不能排除上代日語的敬語里有「絶対敬語」的成分,二者是交織在一起的,我們只能說它們有主次之分。[12]
由此可見,所謂「絶対敬語」「相対敬語」,其實就是說話人在敬語使用上的自主性從上代日語的相對的「小」變為現代日語的相對的「大」之間的兩個極點。二者之間存在一個漫長的連續的過程。為了把這個中間的過程描述清晰,我們還有必要把我們上面提到的,「絶対敬語」「相対敬語」以及渡邊實的上述觀點進一步具體化。
渡邊實的敬語史研究論文有兩篇,一篇是「日本語の変化」(渡辺実1958),一篇是「上代·中古敬語の概観」(渡辺実1973)。
渡邊實(1958)里,渡邊實把敬語分為「受け手尊敬」「仕手尊敬」「聞き手尊敬」和「上品敬語」四大類。這既是玉上琢彌(1955)(實為渡邊實1955,參見注2)的延續,也是渡邊實(1971)的前身。在這里,渡邊實指出:
(中古語では)Cの敬語抑制の習慣が現在ほどに強くはないのである。あまり身分の高くもない者の侍女が、高貴の人を聞き手として、自分の主人のことを話題にするとき、必ずしも神経質に敬語抑制をしないのである。(中略)おそらくそれは敬語使用の規準である人間関係が、客観的な身分関係によって枠づけられていて、その枠を聞き手次第ではずしたり、はめたりすることは、思いもおよばぬ社會機構だったからではあるまいか。聞き手がだれであるかによって敬語規準を変えることは、ひとえに話し手自身の判斷にまつが、話し手自身の自主的判斷よりは客観的身分関係の束縛のほうが強い、という時代だったかと思われるのである。(渡辺実1958:245頁)
中古の敬語規準は話し手の外にあった。現代はそれが話し手の內にあり、話す行為における話し手の自主性はきわめて高いものになってきたのだ、と考えてよさそうに思われる。それはおそらく徐々にであろうが、人間が社會機構に従屬的であった時代から、個人の自主性の強い時代への移り変わりがあって、それがこういう敬語體系の変化に反映しているのにちがいない。(渡辺実1958:246頁)
渡邊實(1973)里還指出:
上代の敬語が、現代のような対象に話手が加える敬意であるよりは、対象の側に含まれるべきものであったのではないか、ということを考えさせる一つの手がかりは、聞手尊敬の敬語の未発達の事実であろう。(渡辺実1973:21頁)
聞手敬語は実際問題として、対象の側の敬語から話手の側の敬語へ変ずることによって発達し、それとともに対象のためのことばの出現位置から離れて、それからより遠い文末付近へと、その出現位置を移す傾向があるように思われる。(渡辺実1973:22頁)
敬語は元來は、対象に屬するものとして発生し、次第に話手に屬するものとして、対象から分離する方向で発達してきたのではあるまいか。(渡辺実1973:22頁)
要するに対象から離れた聞手尊敬は、その出現位置もが対象に関する敘述の場所から離れようとし、敬意というものを、対象に屬するものではなくて、本來話手に屬するものであったのだと気づかせる、導火線となるもののように思われる。裏をかえせば、対象から離れた聞手尊敬の未発達な上代は、敬意がなお多分に対象の側に屬するものであった時代だったのではなかったか。(渡辺実1973:23頁)
盡管渡邊實沒有承認也沒有否定日語史上,不論是上代還是中古,都曾經存在過一個「絶対敬語」的時代,但是,他把語義分為「対象の側の意義」和「話手の側の意義」,并試圖從宏觀上解釋日語敬語史的歷史變化的嘗試的積極意義是不容質疑的。同時,我們還必須承認,上代日語的敬語體系既然不是一個「絶対敬語」的體系,那么,渡邊實所說的日語史發展的大方向,即從「対象の側の意義」向「話手の側の意義」發展的大方向雖然不容否認,但是就敬語史而言,我們就要大打折扣。因為,就是上代日語,敬語也并非純屬「対象の側の意義」,這可以通過《萬葉集》中大量從地位和關系上都該用而不用敬語的實例證明。可見,上代日語中敬語使用的原則是相對性的,其相對性的程度與現代日語相比,我們很難確定哪一個更相對。我們知道,現代日語敬語的使用以對聽話人不失禮這個原則對說話人是否使用敬語、如何使用、使用那一類敬語所具有的約束性是很強的,這一點體現了日語是對聽話人的立場,感情以及對信息的占有與否高度重視的語言。